歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

渋沢栄一

今回は、渋沢栄一について学びました。

 

 

言わずと知れた新一万円札ですね!新札シリーズでは、過去記事「津田梅子」も過去に学びましたが、彼女もすごい人生でした。

 

ddh-book.hatenablog.com

 

渋沢栄一という人の人生は、本当にままならないな〜と思ったので、ままならないポイントをまとめたいと思います。

 

 

討幕攘夷

 

渋沢栄一は、農業と藍の商売を家業とする家に生まれました。父は栄一の教育に熱心で、6歳の頃から三字経の素読を教えられ、大学から中庸(儒学の経典『礼記』に収録されていた2篇)を読み、論語まで習い、8歳からは従兄に漢籍清朝以前に中国人が漢文で撰した書物)を学んだそうです。

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14歳から家業の手伝いを始め、水戸学に傾倒し尊王攘夷運動に走りました。高崎城襲撃計画を立てるのですが、最終謀議当日になって尊王攘夷思想を吹き込んだ当人である長七郎が京都から帰ってきて自重論言い始めたのです。刃物沙汰になったものの、栄一は長七郎の説得が正しいと考えを改め、蜂起は中止となりました。

若気の至りといったところでしょうかね。

 

 

 

蜂起に走ろうとして思いとどまった栄一ですが、八州取締(公安警察)に捕まるのを回避するため、栄一と渋沢喜作の二人でお伊勢参りと称し、水戸を経由して江戸に向かいます。縁故のあった武士、平岡円四郎のところに行くと、主人の一橋慶喜とともに京都に上っており、「渋沢が家来にしてもらいたいと尋ねてきたら、何でも許せ。京都にいるから尋ねてこい」と伝言を残していました。それで、栄一と喜作は一橋家の家来として京都を訪れます。

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正式に一橋家の家臣となった栄一はその才覚を発揮し活躍するのですが、思いもよらない事件が起こります。慶喜が徳川宗家を相続して、第15代将軍になるという話が持ち上がったのです。その時のことを書いた『雨夜譚』をChatGPTに現代風に書き直してもらったのが以下です。

 

今の徳川家を家に例えると、土台も柱も腐ってて、屋根も二階もボロボロの大きな家みたいなもんだ。これを修理しようとしても、大黒柱一本取り替えたくらいじゃどうにもならない。つまり、改造するしかないんだ。中途半端に修理して柱を換えたり屋根を直したりすると、逆に崩れるのが早くなるから、このまま放置して、横から支えを入れるくらいの応急処置で維持するのがいい。でも、それでも維持できなくなったら崩れるしかない。どんなに優れた君主が継いでも、このままじゃ再興は無理だ。

今、一橋公が賢いって言われて将軍を継いでも、一人じゃどうにもならないし、逆に滅亡を早めるかもしれない。その理由は、今はみんな幕府の役人が悪いって言ってるからまだいいけど、賢い君主が継ぐと、みんなの期待が高まって、失敗が許されなくなるからだ。例えば、家の主人が留守だったり病気だったりすると、少々のミスも許されるけど、主人がちゃんといる時には、ちょっとしたミスでも許されないのと同じだ。

だから、一橋公が将軍を継ぐのは、まるで死地に飛び込むようなもので、実に危険なことだ。だから、どうか相続はやめてほしい。その代わりに、他の親藩から若い人を選んで将軍にして、一橋公は引き続き補佐役として京都守衛総督の職務を全うするのが、双方にとって最善の策だと思う。

 

マジやめとけ~!っていう心の声が伝わってきますよね。

栄一の思いむなしく、第15代将軍徳川慶喜が誕生し、家来である栄一も27歳の時、幕臣となってしまいました。ままならないですね~

 

 

いっそのこと浪人になろう!

 

幕臣となった栄一は失望し、落胆しました。同じく『雨夜譚』を現代風にしたのが以下です。

正直、めっちゃがっかりした。普通の人なら、自分の仕えてる殿様が将軍家を継ぐって聞いたら、幕府でいい役職もらえて出世できるかもって喜ぶはず。でも、俺たち二人は違った。もう大事なことは終わったし、これからどうしようって感じ。浪人に戻る?いや、それも行き先がないし、ずっとここにいるわけにもいかない。一橋家に仕えて数年生き延びたけど、これからまた死ぬ方法を考えなきゃって思ってた。 一橋公も今日将軍家を継ぐことになったから、もう俺たちの望みはない。どんなに賢いって言っても、やっぱり大名は大名だから仕方ない。つまり、俺たちの意見なんてちゃんと聞いてもらえないだろうな。

そして、栄一たちはいっそ亡国の臣となるくらいなら、元の浪人に戻ろうと決意を固めました

 

ところがところが、原一之進から呼び出された栄一は、日本代表使節の会計役としてフランスに行ってほしいと言われます。栄一は二つ返事で承諾し、フランスに1年半滞在し、様々な事を見て学びぶことになります。本当に運命のいたずらというか、ままならない人生を送りますよね~

 

 

 

栄一がフランスにいる間に、大政奉還鳥羽伏見の戦い徳川幕府は瓦解してしまいました。しかも、栄一がそれを知ったのは3か月後でした。フランスを引き上げ日本に帰ってくると、江戸は江戸でなくなり、まるで浦島太郎のようです。『清淵回顧録』から、またまた現代風にしてみましょう。

フランスに行くときはめっちゃテンション高かったけど、今はまるで負け犬みたい。迎えに来てくれた人もほとんどいなくて、身分もちゃんとわかってるはずなのに、役人にいろいろ聞かれたり、持ち物チェックされたりして、ほんとにイライラすることばっかりだった。

そして、慶喜に報告するため静岡に行き、宝台院という小さな寺院でその情けない姿を見て涙が止まりません。

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ところが、慶喜の超然とした態度に接し、

その時の慶喜公の落ち着きっぷりにはマジで感動した。普通の人だったら、将軍から急に引退して家にこもることになったら、俺が同情の言葉をかけたら大体同意するもんだけど、逆に俺の愚痴を止めてくれたのは、ほんとに普通の人にはできないすごい心の持ちようだと思った。

とも同書で書いています。

栄一は晩年、徳川慶喜の伝記を書くことにかなりの心血を注ぐことになります。

 

 

まとめ

 

この後も渋沢栄一は、静岡藩で商売がうまくいっていたのに明治政府に士官することになったり、三菱=大隈連合軍との壮絶な海運戦争を巻き起こしたり、従兄の喜作が背負った莫大な借金を肩代わりしたりと、なかなか思い通りにならない人生を送ります。それでも、彼には1本の柱、本書で言うところのフランスで培ったサン=シモン主義の考え方があって、自分の利益のためにではなく、国の発展のために尽力した人だというのが分かりました。国の発展に必要な事業であれば、私費を投入してでも赤字企業を買い取り支えるというのは、読んでいてかっこいいなぁと思いました。日本の資本主義の父と呼ばれますが、渋沢栄一の資本主義を是認しながらも自分は利益追求することなく国のためにと働き、日本の資本主義を調整してきた姿は見習いたい姿だなと思いました。