歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

津田 梅子

今回は、歴史発想源 〜優婉の開花・女子教育篇〜 /津田梅子の章を読みました。

 

 

津田梅子の波瀾万丈の人生もさることながら、その人脈の凄さに驚きでしたので、サスペンス風に図示してみたいと思います。

 

 

7歳で渡米

 

津田梅子は幕末に産まれ、父、津田仙(福沢諭吉と一緒に英語通訳士としてアメリカに渡った経験あり)の勧めで明治4年11月に岩倉具視を大使にした欧米使節団に同行してアメリカに留学しました。

日本人初の女子留学生は、吉益りょう(14歳)、上田てい(14歳)、山川さき(11歳)、永井しげ(8歳)、津田うめ(7歳)の5人であり(それぞれ幼名)、津田梅子は最年少でした。異国に向かう船内で引きこもる少女たちを励ましたのが、後の初代内閣総理大臣伊藤博文だったそうです。

年長の2名は精神的に参ってしまい途中帰国しましたが、山川捨松、永井繁子、津田梅子はそれぞれアメリカ人家庭にホームステイすることになります。梅子は最初は英語が分からず学校にもついて行けなかったものの、猛烈に勉強し徐々に成績が上がり始めます。学芸会での詩の朗読では長編詩「白脚の鹿」を暗誦して地元新聞にも掲載されたそうです。

アーチャー・インスティテュートで優秀な成績を残し、11年にも及ぶ国費留学を終え、山川捨松とともに明治15年に帰国しました。

 

 

無職→英語教師へ

 

帰国した時、18歳の津田梅子は日本語がまったく話せなくなっていました。さらに、一緒に渡米した仲間は皆結婚してしまいます。国費で留学し、がむしゃらに勉強したのにその力を全く活かせず無職で悶々としていた梅子は鹿鳴館のパーティー伊藤博文と再会します。

その縁で伊藤博文の家に住み込み、桃夭女塾で英語を教える傍ら、伊藤博文の家で家庭教師や通訳をすることになりました。明治政府が国立の女学校を設立することを発表したのは、津田梅子が伊藤博文に女子教育の必要性を説いたことも大きく影響したようです。明治18年に「華族女学校」が創立され、準備委員として一緒にアメリカに渡った親友の大山捨松(幼名:山川さき)とも再会します。

 

華族女学校で英語教師として働いていた梅子ですが、花嫁修業のお稽古事の延長のような学生たちの向学心の低さ(学ぼうという意識なんてほとんどない!)に愕然とします。それは、後に招聘された大山捨松のホームステイ先の末娘、アリス・ベーコンも同じでした。

「梅子、日本の女子教育を本気で変えたいと思うなら、あなたはアメリカに留学すべきよ」というアリスの言葉に一念発起した梅子は、アメリカ時代の知人たちににも手伝ってもらい、セブン・シスターズ」の一つに数えられる名門校のブリンマー大学から奨学金の交付と授業料の減免の確約を得ます。さらに、華族女学校の校長に交渉して、英語教授の役職はそのままに、2年間の有給休暇を得て再び渡米します

 

 

再びアメリ

 

ブリンマー大学では、学部長の勧めで主専攻を「英語学」と「歴史学」、副専攻を「生物学」に決め、再び猛烈に勉強しました。後にノーベル生理学・医学賞を受賞したモーガン博士の助手としても研究を行い、日本人女性初となる科学論文を発表します。また、留学中はアリス・ベーコン著「日本の女性(明治日本の女たち)」の出版にも協力したそうです。

 

 

ブリンマー大学ではアナ・ハーツホンとの出会いもありました。アナは、父 梅田仙が渡米した際持ち帰り翻訳した医学書の著者ヘンリー・ハーツホンの娘であり、新渡戸稲造の「武士道」の執筆を助けた人物でもあります。

 

ddh-book.hatenablog.com

 

トーマス学部長、モーガン博士に「あなたは世界的な科学者になるべきだ」とかなり強く引き留められますが、当初の予定を1年延長し、3年間の留学を終え津田梅子は帰国しました。

 

 

万国夫人クラブでのスピーチ

 

華族女学校に戻り、英語教師をしていると、伊藤博文大隈重信を介して「万国夫人クラブ連合大会」の女性代表の一人に選ばれます。明治31年にデンバーで行われた津田梅子のスピーチは来場者たちの心を打ち、最も優れた演説として地元の新聞にも絶賛されたそうです。

大会後、かつてホームステイをしていたランマン家に立ち寄ると、夫人よりあなたに会いたがっている人がいるとヘレン・ケラーを紹介されます。ヘレンと梅子は色々な話をし、「ミス・ツダの成功と幸せを、心からお祈りしています。ヘレン・ケラーという手紙をもらい、大事にしていたそうです。

 

また、イギリスに招待された梅子は、かつて自宅に寄宿していた安井てつにオックスフォード大学で出会います。そして、聴講生としてオックスフォード大学に留学する間に紹介されて面会したのは、あの、フローレンス・ナイチンゲール(晩年)です。梅子は「イギリス女王陛下に会うよりも嬉しい」と大いに喜び、彼女と女性教育の未来について話したそうです。日本人でナイチンゲールに実際に会うことができたのは津田梅子と安井てつの他には2人しかいないそうですよ。

 

 

女子英学塾

 

欧米の教育事情をしっかりと見てきた津田梅子は、今こそ自分が立ち上がるべきだ!と決心し、これまで教授として勤めてきた華族女学校と女子高等師範学校に辞表を提出します。

 

その後も色々と苦難の連続だったのですが、女子英学塾を立ち上げ、後に津田塾大学となりました。この辺は、津田塾大学のHPを見ると写真付きで分かりやすくまとめてありますので、続きが気になる方はそちらをご覧ください。

 

私はもう、お腹いっぱいです…。

 

 

まとめ
 
いやもう、スタートダッシュがはやすぎだし、優秀すぎて目が点になってしまいました。出会う人が皆お札になったり、教科書にでてくるような大物ばかりなのも驚きの連続です。さすが、新五千円札になる人物ですね。
津田塾大学は今でも学芸学部(5学科)、総合政策学部(1学科)、大学院(修士および博士課程)を有する女子大学として続いており、津田梅子の思いが今にも続いているんだなと感慨深いです。
日本人として誇れる女性だと思いました。