歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

マクルーハン

今回、今こそ読みたいマクルーハン(2013年)を読んで、もっとマクルーハンを知りたいと思い、マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?(2018年)も読んでみました。

 

 

 

 

 

Wikipediaによると、

マクルーハン(1911年7月21日 - 1980年12月31日)は、カナダ出身の英文学者、文明批評家。もともとニュー・クリティシズム等を論じる英文学教授だった。

と書かれています。

マクルーハンの名を著名にしたのは、メディアに関する理論であり、英文学よりもメディア研究で有名となった人物です。

 

 

私は説明しない、探究するのみ

 

マクルーハンが最初に注目された60年代は、テレビが急速に広がり、東京オリンピックが開催された頃でした。そして、一度はブームが去ったものの80年代にインターネットが誕生すると、再び注目され始めます。彼のメディア論は予言書のようだともてはやされ、数多くの書籍が出されたそうです。

しかし、「私は説明しない、探求するのみ」と本人も言っている通り、彼の文章は難解で、とても理解しにくいもののようです。

解説書を読んでいても、きちんと理解できているのかは怪しいですが、私が理解したマクルーハン理論を整理したいと思います。

 

 

メディアはメッセージである

 

通常、メディアの持つメッセージとはコンテンツであると考えられますが、マクルーハン「コンテンツとは泥棒が(精神の)番犬の注意をそらすために与えるちのしたたる肉片」であり、メディアの本質的な議論から目をそらすものだと述べます。

例えば、遠方に住む知人が無理なお願いを快く引き受けてくれた時、感謝の気持ちを手紙で伝えるのか、メールにするか、LINEスタンプで送るのかを考えてみます。こだわりの便箋を選び、手書きで手紙を送ったらより感謝という気持ちが伝わるかなと思いますよね。つまり、自分の気持ちはコンテンツで表されるから十分ではなく、私たちは常にメディアにも配慮している、ということです。

 

そして、彼はメディアをより広い意味として捉え、人間が作り出した技術全般を含むものと考えていました。つまり、彼の言わんとする「メディアはメッセージである」とは、「メディアが社会の構造に与える変化、それこそがメディアのメッセージである。」ということのようです。そして、「いかなる技術も徐々に完全に新しい人間環境を生み出すものである」とも述べています。

 

 

人間の身体の拡張

 

自分で書いていても意味が分からないので、もう少し彼の考えを紐解いていきましょう。

 

彼が62年に出版した「グーテンベルグの銀河系」では、15世紀にグーテンベルグが発明した活版印刷がそれまでの写本文化を終わらせ多くの書物を普及させることにより、西洋社会の視覚優位の世界を作ってきたことを説いています。

彼は車輪を「足の拡張」、衣服を「皮膚の拡張」、自動車は「全身の拡張」と捉えており、メディアも何らかの形で人間の身体を拡張したものであると考えていました。そして、あるテクノロジーによって感覚が拡張され、結果として感覚比率が乱されると新しい比率によって新しい「ものの見方」が現れ、人間の行動が変化すると考えています。

 

紀元前370年頃ソクラテスは「人々が文字を学ぶと記憶力の訓練がなおざりにされ、忘れっぽくなる」と言いましたし、紙や印刷物が普及すると「最近の生徒たちは石板を使わない、紙に頼り過ぎだ」、テレビが普及すると「テレビが子供をバカにする」、スマホが登場すると「何でもスマホで検索して自分でものを考えなくなる」などと、数限りない新技術がこれまでやり玉に挙げられてきました。

 

マクルーハンは、「新しいテクノロジーが古い社会に導入されると、その社会はそれ自身が持っていた古いテクノロジーを理想化する傾向がある」と述べており、新しいメディアによる感覚の拡張が及ぼす不安や苦痛にも言及しています。

 

魚は釣り上げられなければ水の中にいたことを知らないものです。私もそうですが、テレビは戦後世代にとって生まれたときから一緒に育った「水」のようなメディアですし、私の息子達は生まれた時からスマホがあって、何でも検索するのが当たり前の世代です。古い人たちはごちゃごちゃ言ってきますが、当人たちにとってはテレビもスマホも「普通」のことですよね。

 

 

ホットとクール

 

また、メディアにおける「ホット」と「クール」という概念もマクルーハンが提唱している考え方です。ちょっと分かりにくいので、表にしてみました。

 

ホットなメディアは高精細、高解像度で、与えてくる情報量が多く、視聴者の参加は求められていません。一方、クールなメディアは低精細、低解像度で情報量が少なく、視聴者の積極的な参加が求められます

彼はホットなメディアの典型である活字印刷が人間と対象の関係を切り離してしまう弊害を生んだとして、テレビのようなクールなメディアが人間の関与を取り戻してくれると考えました。

人間は不完全な情報に接すると、それを完全なものにしたい、何を意味するのか100%理解したいと考えてしまうため、それが「ホット」になることを願うか、自ら情報を補完することになるのだそうです。マクルーハンは「印刷」を「書き言葉がホットになったもの」と捉えており、人々は常に「ホット」なメディアを求め続けていると言えるかもしれません。

 

 

 

マクルーハンは、活字が出現する以前のカトリックが中心だった世界を理想化し、電子メディアがさらに大きな地球規模でそれを回復すると考え、グローバル・ビレッジ(地球村)と呼んで期待を寄せていました。

彼は電子メディアが世界規模に広がって人間同士をクールに関与させることで、物理的な村よりももっと大きなスケールで新しい共同体を作り、それが逆に村のようなスケールで感じられるというイメージを描きました。時間と空間の消失、そして「あらゆることは起こった瞬間にあらゆる人がそれを知り、それゆえそこに参加する」ことを予測しています。そして、そのような状況においては一旦事態が動き出すと手が付けられなくなります。人々は、「注意の対象をアクション(行為)からリアクション(反応)に変えなければいけない」とも言っています。

地球村とは、人々の間で激しいやり取りが起きる、不快な環境なのである」とも述べているそうで、今日々ネット上で起きている炎上を予測しているようでもありますね。

 

 

まとめ

 

マクルーハンは、「メディアが環境を作るが、その環境の中にいる限り全体像を正確にとらえることはできない」と考えました。地球は地球の外から見なければ全貌が分からないということです。

本書を読んで、新しいメディアによる感覚の拡張は不安や苦痛を伴うということを知って、環境が変化しようとしていることに気付けるようになりたいと思いました。「昔は良かった~」なんてババ臭いことは今後一切言いません(笑) そして、そのメディアは五感のどの感覚を拡張しているものなのか、ホットなのか、クールなのかも考えてみたいなと思います。