今回は、「歴史発想源~大望の雪原・南極踏破篇~/白瀬矗の章」を読みました。
このお話は、北極・南極にある極地点を目指した冒険者たちの話で、19世紀末から20世紀頃の話になります。南極探検と言えばタロージローの話が有名ですが、それよりももっと前、戦前の頃の話です。
1909年4月6日にアメリカの探検家ロバート・ピアリーが世界で初めて北極点に到達しました(到達したということになっています)。その頃の学会の王者と言えば王立地理学会のあるイギリスだったので、アメリカの台頭を世界中に知らしめる偉業となりました。
ピアリーは8回目のアタックでようやく北極点に到達したのですが、かつての隊員で遭難死したと思われていたフレデリック・クックが「自分も実は北極点を目指し、1908年4月21日に達した」と主張したため、論争が巻き起こります。ピアリーは買収した証人にクックのウソを証言させ、正式に人類初の北極点踏破したことが認められます。
ところが、実際にはピアリーも最終的に北極点にはたどり着いていないのではないかというのが一般的な見解なのだそうです。探検日誌にも北極点に到達した日の様子が書かれておらず、記念写真も不明瞭で確たる証拠に乏しいそうですよ…。
さて、北極点が先を越されたのであれば、次は南極点だ!ということで、イギリスの王立地理学会からスコット隊、ノルウェーからアムンセン隊、そして、日本から白瀬矗隊が南極点を目指します。
<スコット隊>
出発日:1910年6月
船:石炭式エンジンを装備した744トンの帆船テラ・ノヴァ号
移動手段:最新鋭のモーター雪上車、ポニー
<アムンセン隊>
出発日:1910年8月
船:石油式エンジンを搭載した404トンの帆船フラム号
移動手段:犬ゾリ、氷上はスキー
<白瀬矗(しらせのぶ)隊>
出発日:1910年11月29日
船:18馬力(現在の150㏄バイク以下)しかない204トンの中古サケ漁船
移動手段:犬ゾリ、徒歩(スキーなんてそもそも知らない)
いや、白瀬隊普通に無理ゲーでしょ!と思いました。フラム号のニールセン船長は「こんな小さくて古い船でこんな所まで来られるとは凄すぎる」と、日本隊の執念と航海術を絶賛したそうです。
スコット隊に2ヶ月の遅れをとったアムンセン隊でしたが、越冬し、10月19日に隊員5人と犬52頭で基地を出発しました。 未踏のルートを進み、11月17日に南極横断山脈に辿り着きます。その先はクレバスが無数に口を開けている超危険地帯で、アムンセン隊はあちこちで死に直面しながら、何とか駆け抜け、1911年12月14日の午後南極点と思われる場所に到着しました。
そして、南極点到着の証拠を残して1月25日にはフラムハイム基地に全員生還しました。
スコット隊も越冬して11月1日に基地を出発します。ところが、雪上車のモーターが想定外の寒さですぐに故障してしまいます。移動に予想以上の日数がかかり、牧草がなくなると、今度はポニーが次々に餓死しました。以降は人力のソリで荷物を運び、12月22日、当初予定していた4名ではなく、どういう訳か5名で南極点にアタックすることになりました。
1912年1月17日スコット隊はついに目南極点へ到着しましたが、そこには既にノルウェーの国旗が立てられていました。
肩を落とす暇もなく、厳冬が到来するためにその日のうちに南極点を出発します。ところが、 アムンセン隊が伝統的なアザラシの毛皮などで作った防寒着を着ていたのに対し、スコット隊はバーバリー社と共同開発した牛革の防寒着を着用していたため、中で汗が氷結し、重くなり、体力と体温を奪われました。
また、中継地点まで戻った時には燃料を入れていた缶の密閉部分が壊れていて、中の燃料が揮発していました。
3月20日、早すぎる厳冬のブリザードが襲い、隊員2名も失って、次の中継地点までわずか18kmという地点でスコット隊は動けなくなり、テントの中で全滅してしまいました。スコットが書き続けた日記の最後の日付は1912年3月29日なっており、その日がスコットたちの亡くなった日と断定されたそうです。
1月20日、白瀬矗は5人のチームで犬ゾリを走らせ、南極点へと向かいました。極地の経験もなく、装備も貧弱で、テントは3人が入ればいっぱいの為、残る2人は雪の中で野宿するという過酷な状況だったそうです。
もちろん南極点まで到達できるはずもなく、南緯80度5分を南極探検の最終地点と決め、その地に日章旗を立てます。そしてその広大な雪原を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本領土であることを宣言しました。
ところが、帰りの分の食糧が足りません。空腹を我慢し全力で駆け抜けて、282kmの8日かけて移動してきた距離をわずか3日間で走り抜け帰還したそうです。誰一人死ぬことなく、全員が基地に生還できました。
しかし、世界的偉業を果たした極地探検の英雄は、日本ではあまり注目されず、生還の代償として巨額の借金を背負うことになってしまいます。彼は講演で借金返済を続ける毎日を送り、85歳でひっそりと亡くなったそうです。
白瀬矗隊の偉業により、戦後、敗戦国の日本が南極観測の参加を認められることになる、つまりタロージローへと繋がっていくのですが、その不思議な偶然とめぐり合わせは、ぜひ本書をお読みくださいね。
当時の最新技術を持ち込んだスコット隊とイヌイットの伝統的技術を取り入れたアムンセン隊でしたが、明暗がはっきりと分かれてしまいましたね…。伝統的に選ばれてきたものには、やっぱりそれなりの理由があるのだということを忘れてはいけないのだということが分かりました。
そして、 白瀬矗隊!!あの、あの貧弱装備で、何という執念でしょうね。あっぱれでございます。