今回は、「昭和の参謀」(2022年)を読みました。
本書は、戦時中、陸軍で活躍した参謀7名の参謀としての活躍やその後の人生について書かれている本で、こんな人がいたのかととても面白かったです。今回は、中でも特に興味深い生き様だなと思った3名を取り上げ、私が勝手にイメージしたキャッチコピーを添えて(笑)まとめたいと思います。
参謀とは、軍の行動を定める〝頭脳〟的存在です。 作戦計画を起案したり、その実施について助言したりと司令官(指揮官)を補佐します。
参謀本部は作戦、兵站、動員などを担当する第一部(通称・作戦部)、情報、宣伝、謀略などを担当する第二部(通称・情報部)、運輸、通信などを担当する第三部などに分かれていました。参謀になれるのは、陸軍大学校の成績上位1割であり、その中でも作戦部作戦課はエリート中のエリートになります。
右肩から参謀懸章(飾緒)という飾り(ヤフオクで売られてた!)をつけており、 将軍と呼ばれる将官クラス以上であれば、参謀の経験がない方が稀だということでした。
虚栄心強すぎ!独断専行のドン・キホーテ
辻は、炭焼きの子として5人兄弟の次男として生まれました。電灯もない山奥の村で過ごし、苦学の末に陸軍幼学校に入学、次いで陸軍士官学校に進み、36期を主席で卒業します。
エリートの作戦参謀として戦場に立ち続ける一方、度々職務権限を逸脱し、各所で問題を引き起こします。満洲とモンゴル国境で勃発したノモンハン事件では独断専行で爆撃を行い、日本軍将兵1万5千人の死傷者を出しました。マレー作戦では、イギリス軍を撃破し、シンガポールをわずか70日で陥落させ「作戦の神様」と称された一方、現地華僑の大量虐殺も指揮しています。
その後もフィリピン、中国、ガダルカナル、ビルマと戦場の前線に立ち続け、終戦はタイのバンコクで迎えました。 戦犯追及から逃れるため僧侶の姿に扮した辻は、ラオス、ベトナムから中国、そして日本へと移り、都合5年にわたる潜伏生活を送ったそうです。
帰国後、潜伏生活を『潜行三千里』として出版するなどし耳目を集め、1952年(昭和27年)の衆議院総選挙ではトップ当選。自衛同盟を発足させます。が、政治の中心に立てることも、他の候補者を当選させることもできず、視察に出かけたラオスで消息を断ち、後に死亡宣言が出されたそうです。
過去記事「東南アジアから見た日本」でシンガポールについて、
この(華僑の)虐殺に対して戦後に戦争裁判が開かれましたが、戦死や逃亡により裁くことができなかったため、シンガポールに住む華僑の心にくすぶっている
と書いていますが、「辻のことかぁ!!」と思わず声に出てしまいました。
シベリア抑留から生還!死ぬまで参謀だった男
瀬島は石川県と富山県の県境にある村で、村長の三男として生まれました。東京陸軍幼年学校に行く時には、村総出のお祭り騒ぎだったようです。幼年学校は首席、士官学校は次席、陸大は首席の秀才で、努力家でもありました。
瀬島は作戦課の最若手ではありましたが、上司の意図を汲み取り、素早く的確に起案するため、かなりの信頼を得ていたようです。満州、中国、内地、南方全ての兵力運用を担当し、ガダルカナル島撤退など、主要な作戦に関わりました。
終戦に応じない関東軍司令部を説得するため満州に行くと1ヶ月後に日本は降伏します。ソ連との停戦交渉を済ませ、そのままシベリアに抑留となり、軍事法廷では重労働25年の刑に処されました。瀬島は抑留中の話はほとんどしなかったそうですが、佐官をしていたエピソードだけはよく語ったそうです。
また、抑留によって階級を剥奪された時、本当の人間の価値が分かったとも語っています。
11年に及ぶ抑留の後、日本に帰国し、伊藤忠商事に嘱託で入社します。瀬島は、5年で常務取締役、その9年後に副社長と、驚異的なスピードで出世し、社長、会長もつとめています。アメリカのゼネラルモーターズといすゞ自動車との提携の陣頭指揮を取るなど、高度成長期の瀬島の活躍は伝説のように語られます。「私は参謀であって司令官ではない」というのが瀬島の口グセだったようです。
さらに、「増税なき財政再建」を旗印に発足した第二次臨時行政調査会への委員になります。 参謀時代に培った「根回し」を発揮し、国鉄、日本専売公社、日本電信電話公社の民営化に尽力し、士官学校時代の人脈を活かして韓国との交渉役も引き受けました。その後も数々の公職を歴任し、95歳、老衰で亡くなったそうです。
長期計画→短期計画で考える、提案は1枚の紙にまとめる、結論を先に書く、要点を3つに集約するといった、今のビジネス書に書いてありそうなことも瀬島が言っていたことです。シベリア抑留がなければ、このような成功者にはならなかったと思うし、優秀な人はどの分野でも優秀だなと思いました。