歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

暇と退屈_1

今回読んだのは、「暇と退屈の倫理学(2022年)です。

 

 

本書は本当に面白くて、学びばかりだったので、2回に分けて学んだことを整理しながらまとめていきたいと思います。哲学とか倫理学というのは本当に難解で、読んでも途中で挫折してしまったり、最後まで読んだけどほとんど分からなかった…なんてことも多いのですが、本書は私でも頑張れば分かる!と思わせてくれた本でした。

 

本書における著者さんの結論をここに書いたところで、それはあまり意味がありません。そう、過去記事「死に対する恐れ」のように、その答えが導かれるに至った過程、つまり、読みながら一緒に歩み考えたことが重要だということです。

 

ddh-book.hatenablog.com

 

1回目の今回は、著者さんの「暇と退屈の倫理学の根幹ともいえるハイデッガーの退屈分析についてまとめてみたいと思います。

 

 

形而上学の根本諸概念』

 

これは、マルティン・ハイデッガーフライブルク大学で1929年~30年にかけて行った講義をまとめた本です。この本の出発点は哲学とは何か?ですが、私たちは退屈のなかから哲学する他ないと気づき、退屈についての長い論究を始めます。

ハイデッガーは最初に「退屈はだれもが知っていると同時に、だれもよく知らない現象だ」と言います。そして、最終的には退屈を3つに分けて考えることを提案します。

  1. 何かによって退屈させられること
  2. 何かに際して退屈すること
  3. なんとなく退屈だ

 

 

退屈の第一形式

 

「何かによって退屈させられる」というのは、駅での列車待ちで説明されます。何度も時計を見ながら列車が来るのを駅舎で待つ間の退屈な様子が描写されます。

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待つことや焦りが退屈と関連しながら現れ出るのですが、時間はなかなか進みません。退屈しながらぐずつく時間によって〈引きとめ〉られているとも言えます。そして、何もすることがない、むなしい状態 〈空虚放置〉の状態に人は耐えられません。

空虚の内に放置しているのは駅舎ですよね。目の前の駅舎が私たちの言うことを聞いてくれないから、私たちは退屈するのだというのが退屈の第一形式、「何かによって退屈させられている」状況です。

何かによって退屈させられるという現象の根源には、物と主体との間の時間のギャップが存在します。それによって〈引きとめ〉が生じ、〈空虚放置〉されるということです。例えば、実りある発言や提案が提供されない会議では、自分とその会議の場の時間にギャップが生まれ、退屈するということです。

退屈の第一形式は〈暇でありかつ退屈している〉と言えます。

 

 

退屈の第二形式

 

第二形式は第一形式よりもより深まった退屈です。第二形式の退屈は、特定の何かによって退屈させられるのではなく、何がその人を退屈させているのかが明確ではないのが特徴です。ハイデッガーはパーティーにおいて、会話も、人々も、場所も、葉巻も退屈ではなかったし、全く満足して帰宅したにも関わらず退屈していた、と気づく場面を描写し説明しています。

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このパーティーにおける私は、周囲に調子を合わせる付和雷同の態度で投げやりになり、自分をその雰囲気に任せっぱなしにしている状態だと言えます。この時の自分自身は〈空虚〉であり、時間を停止させています。第二形式において見出されるのは、根源的な時間への〈引きとめ〉、つまり時間に放任されてはいるが放免はされていない状態です。

退屈の第二形式は〈暇ではないが退屈している〉ということになります。

 

 

退屈の第三形式

 

そして、最高度に「深い」退屈が退屈の第三形式になります。それは、「なんとなく退屈だ」と表現されます。この最も深い退屈は、偶発的に、だれがとか、どこでとか、どんなときとは関係なく現れます。例えば、日曜日の午後に大都会の大通りを歩いていてふと感じる退屈です。

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ハイデッガーはこの第三形式においては気晴らしはもはや許されないことを了解していると述べます。そして、この第三形式から他の二つの退屈は発生します。 退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよーこれがハイデッガーの退屈論の結論です。人間はこの声を抑えつけるために、仕事の奴隷になったり、退屈と混じり合った気晴らしに耽ったりしているということでした。

 

 

退屈とは

 

もう少し丁寧に思考を辿っていきましょう。

第一形式の退屈は時間を失いたくないため退屈を感じています。では、なぜ時間を失いたくないのか?それは、日常の仕事に使いたい、つまり、時間を無駄にしたくないということに他なりません。私たちは日々の仕事の奴隷になっているからこそ第一形式の退屈を感じます。そして、私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだということです。

 

では第二形式の退屈はというと、第二形式の退屈の発端となっているあの気晴らし(パーティー)は、そもそも退屈、つまり、第三形式の「なんとなく退屈」を払いのけるために考案されていました。第二形式では、私たちは自分に時間を与えており、奴隷ではありません。第一形式よりも自分に向き合おうとしています。

 

私たちは「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けた時、私たちはだだっ広い「広域」 (あらゆるものが退き、何一つ言うことを聞かない真っ白な空間)に置かれます。退屈するというのは、人間の能力が高度に発達してきたことのしるしであり、能力の余りがあるために「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまうということでした。だからこそ、 退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよなのです。退屈できるということは自由なのだということです。

 

 

まとめ

 

何とかハイデッガーの退屈分析をまとめてみましたが、本書の著者さんは「このハイデッガーの結論は受け入れ難い」と述べます。さてさて、面白くなってきましたね。続きは次回をお楽しみに!