歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

受動意識仮説

今回は、僕という心理実験~うまくいかないのは、あなたのせいじゃない~(2022年)を読みました。

 

 

本書は、過去記事「意志はどこにあるのか?」の心理学的決定論について書かれた著者さんと同じ方です。

 

ddh-book.hatenablog.com

 

この著者さん、大学にお勤めの心理学者さんということなのですが、専門書や哲学書だけでなく、マンガ、ゲーム、アニメ、映画、ドラマ、YouTube、プロレスなど様々なことを話の中で引用してくるので、私には面白くてたまりません。
※「鬼滅の刃」で無残以外は元は人間だと書かれていましたが、無残ももともと人間(病弱)ですから!

本当に好き勝手に書いている感じなのですが、研究に裏付けされた考えさせられる内容もあり、「心理学的決定論」の考え方をゴリゴリに勧めてくる訳ではなく、こういう考え方もあるよね?と語りかけてくる感じが、構成主義の私にはとても好きなところです。

特に面白かった「受動意識仮説」「自己情報を残すこと」についてまとめたいと思います。

 

 

受動意識仮説

 

慶應義塾大学の前野隆司教授が提唱している仮説です。脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説という本があるようですが、電子書籍がなく残念ですね…。

 

 

YouTube慶應義塾チャンネルには1時間半の講義動画もありますので、詳しく知りたい音派の人はそちらでも良いかも知れません。

 

さて、受動意識仮説とは、「人間は「知覚・記憶・私」の順序で心を発達させた」というもので、

  1. 生存競争の中で敵か味方かを判別するため、外界の情報を的確に見定めるための「知覚」が必要になった。
  2. 知覚した敵(例えば赤色)から効果的に逃げるためには過去の赤色の敵と今目の前にいる赤い存在とを比較照合すること、つまり「記憶」が必要になった。
  3. エピソード記憶(「私は昨日赤い敵に襲われた」という自分を軸にした記憶)を持つためには軸となる主人公が必要だった。

というものです。

 

生存競争、進化の過程で「私」という人格が必要になり、「私」が人格を持つと、「私」と「私以外」が「私たち」と「私たち以外」になって争い、戦争を起こしているってことですよね。

一気に目が覚めるような話です。

 

 

中動態

 

昔、人類の言語には能動態と受動態との中間である中動態といいうる表現方法があった、つまり、「する」と「される」の中間、どちらでもありどちらでもない、そんな言語表現があったのだそうです。

日本語は特に主語や主体、受動・能動が漠然とした表現が好まれ、用いられてきました。正岡子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」や、川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」などがそうです。

 

著者さんは

民主主義の徹底と、肥大化し過ぎた自由意志はやがて中動態という言語表現をロストさせた。

と述べており、「私」と「私以外」の境界線は今ほど明確ではなかった時代もあったようです。

 

 

自己情報を残す

 

この世に存在する全てのものは「自身の情報を増やすこと」「自己の情報をできるだけ失わないようにすること」を宿命づけられている。

 

 

情報としての自分を残す方法は、誰か他者の脳の中に情報としての自己のコピーを残すことでした。そして、より多くの人の脳に残る方法として芸術が、誰か一人の人の脳に残る方法としてが生まれました。

社会脳仮説では、人間同士の脳の中の情報のやりとりによって、進化し脳を肥大化させたといわれているそうです。自分の脳内に他者のコピーを取り、他者の脳内に自分のコピーを取ってもらうよう働きかけること(芸術や愛)の副産物として認知能力が向上し、大きい脳を獲得したのではないだろうかということでした。

 

 

愛とは

 

そうだとすると、愛とは情報の維持を促進するために作られたものということになります。つまり、「愛してる」がわからない命などないとすら言えます。

著者さんは教育虐待と言っても良いような環境で育ち、精神を病んだ経験も本書で語っています。

弱い者は、内側の愛を確認するために他者を傷つける。忘れているだけだということに気づきさえすれば、他者を実験せずに済んだのに。

 

 

まとめ

 

なぜ人間はここまで知能を発達させたのだろうか?というのはずっと疑問だったのですが、本書を読んで受動意識仮説がすとんと腹落ちしました。

お釈迦さまは自我は存在しない「空」であると教えていますが、受動意識仮説が正しいとすると、まさにその通りでした。

 

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愛を確認しようとするのは人間の宿命で、「私」と「私以外」に境界線を引くから苦悩が生まれるということがよくわかりました。

 

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本書でも引用されていましたが、上野千鶴子先生の言う社会的弱者が弱者のまま尊重される社会」を私も目指していきたいと思いました。

 

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