最近は、悟った人の本を読んでいました。
悟った人といえば、ブッダですが、私が読んだのは「”それ”は在る」(2013年)や「「私」という夢から覚めて、わたしを生きる~非二次元・悟りと癒しをめぐるストーリー~」(2016年)などです。「”それ”は在る」では、悟ったかどうかは瞬時にわかると書かれていますが、「「私」という夢から覚めて、わたしを生きる」では、徐々に、段階を経て悟りに向かうということでした。
私は悟ったことがないので、よく分かりません。
読めば読むほど訳が分からなくなるのですが、面白いなと思った考えを整理しておこうと思います。
思考は誰のもの?
思考や想念は幻想に過ぎず、知識もまた単なる幻想にすぎない、「真実のわたし」ではないのだそうです。思考や想念は絶えず流れているが、それを自分だと勘違いしてはいけない、思考が静まり沈黙が訪れる、それが「空」だということでした。
般若心経の「色即是空」、つまり、「現世にあるあらゆる物事や現象には、すべて実体はなく、空無である」ということですね。瞑想中、沸き起こる思考や感情をただ眺めていると自然と流れていきますが、そう考えると、思考を眺めている実態のないものが「わたし」であり、「思考はわたしではない」というのが理解できます。
自由意志は存在しない
全ては完璧なタイミングで起きる必然であり、すでに書かれているということでした。人は無数の選択肢から選ぶことができるが、それは思考により決められる。やってきた思考以外のことは想像することすらできず(存在しない)、自分で決めたと思っていても、外部環境に反応し、従ったに過ぎないそうです。
確かに、アニータさんも同じようなことを言われていましたし、心理学の研究でも「自由意志は存在しない」ということが証明されています。「自由エネルギー原理」で学んだ脳の働きとも考え方が一致しますね。思考したもの(見たもの)しか存在しない、量子のようでもあります。
思考は私ではないので、私に起きることや私が選んだ(と思った)選択は私が選んだものではないということですね。そうすると、私に起きる全ての事象はシナリオ通りに起きているだけで、「わたし」は私を演じているに過ぎないということになります。
今、やりたいことをやる
じゃあ、「わたし」はどうすればいいの?ですよね。
やって来る思考は私のものではないが、やりたいことをすればよい。それで完璧だ。ということでした。「悟りたい」と考えた時点で、それは「わたし」ではありません。
「私は思考ではない」という知識すら手放し、ただ在ること。「コーヒーが飲みたい」という思考がやってきたら、それに気づき、コーヒーを飲めばいい。ただ、手がカップを持つことに気づき、身体がコーヒーを飲むことに気付き、見守れば良いということでした。「私は今、本当にこれをしたいのか?」と聖心(ハート)*に問い、その声に従って行動すれば良いのだそうです。
*「聖心」とは_Wikipediaより引用
聖心(せいしん)とは、「聖なる心臓」を意味し、イエス・キリストの人類に対する愛の象徴である心臓、またそれに対する信仰を示すことばである。キリスト教の中でも、特にカトリック教会で用いられる用語であり、イエズスの聖心会などの修道会やそれらに関係する団体の名として用いられる。
「思考が起きる瞬間を目撃する」ことで悟りへの道が近くなるかも知れないとも書かれていました。
まとめ
思考は「わたし」ではない、記憶は「わたし」ではない、感情は「わたし」ではない、身体は「わたし」ではない…だんだん頭がごちゃごちゃしてきますが、ごちゃごちゃになっているのも「わたし」ではない(笑)
とりあえず、「悟ろう」と考えて悟れるものでもないということは分かったので、ブログを書きたいまま書いて、好きなように生きようかなと思います。