今回は、「NHK「100分de名著」ブックス 道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り」(2018年)を読みました。
Wikipedia検索すると、
鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。(中略)主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている。
と書かれており、まぁ、禅の偉いお坊さんです。
道元は24歳で明全(先生)と宋に渡り、26歳の時に如浄禅師(師匠)の修行で身心脱落し、28歳で1人宋から帰国しました。34歳の時から没する54歳まで書いていた本を、弟子たちが編集し、全95巻にもなる「正法眼蔵」がまとめられたそうです。
宋で没した明全(先生)からは、「国に帰ったら布教活動をせよ。権力者に近づくな。山林に住して、一人でもいい、一人が無理なら半人でもいい。法を伝える弟子をつくって、釈迦正伝の仏法を断絶させるな。」と言われていたそうで、道元は海外留学した言わばエリート僧ですが、比叡山など他の宗派との折り合いは悪かったようです。
誰もが私の宗派こそが、本当のお釈迦様の本当の教えを伝えていると考えていますが、道元も同じなんだなと思いました。
道元と他のお坊さんとの考え方の違いが面白かったので、ご紹介します。芥川龍之介の蜘蛛の糸で、地獄にお釈迦様がたらした蜘蛛の糸をどうするのかで説明しています。
親鸞…阿弥陀仏の救いを待つことにして、蜘蛛の糸にはのぼらない
確かに、他力本願っぷりに道元が相容れなかったのも分かる気がします。
身心脱落とは、悟りに達するということです。
道元は、師匠の如浄が居眠りする雲水(弟子)を、「坐禅とは邪念をなくすことなのに、おまえは坐禅しながら五つの煩悩(五蓋)の一つである睡眠蓋にとらわれている。ナンタルコトゾ!」と叱ったのを隣で聞いて身心脱落したのだそうです。しかも、その時如浄は「邪念をなくすこと」の意味で身心脱落を用いていたのに、「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」と道元が勝手に解釈したのではないかということでした。
道元の身心脱落は自己も他己も忘れて(脱落)、悟りの世界に溶け込むことを指します。自我を角砂糖にたとえると、いつも角ばった砂糖の状態を保とうとするのではなく、それを湯の中に入れよ(砂糖の全量は変わらない)…蜘蛛の糸になりきる、ということになります。
仏性とは花だけを指すのではなく、種も芽も全てが仏性であると道元は考えます。たとえ病気の時でも病気という仏性がそこにはあり、しっかりと病に苦しめば良い、迷いがあれば迷えば良いということです。
全ての存在が過去でも未来でもない「いま現在」であり、生きている時も死んでいる時も、宇宙の万物全てが仏性であるというのが道元の考え方です。
哲学的ですね。著者さんも「正法眼蔵」は哲学書として読むことを推奨されます。
全てが仏性であるならば、私たちは修行する必要なんてないですよね。道元は、仏性を活性化させるために修行が必要なのだと考えていたそうです。
坐禅が修行なのではなく、日常生活の全てが坐禅であり、修行です。悟りを目的に修行するのではなく、修行の中に悟りを見て、悟りの中に修行がなければならないと考えるのだそうです。
禅の修行と言えば掃除というイメージですが、そういうことなんだなと分かりました。
過去記事「お釈迦さまは人類に向けて語った」でも、私たちの仏教こそが釈迦が伝えた本当の仏教だと言っていて、きっと、キリスト教とか他の宗教でも同じような事態が起きているのだろうなと想像しました。
本当に人々を救えれば多少違っても良いのでは?と思ってしまうし、争ってしまったら本当のニセモノになってしまうよと思うのは、私が八百万の神様をあがめる日本人で、基本的には無宗教故でしょうか。