歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

二つの落とし穴

今回は、「勉強するのは何のため?--僕らの「答え」のつくり方」(2016年)を読みました。

 

 

本書に書かれている「なんのために勉強するのか」、「なんで学校に行かなきゃいけないのか」、「いじめは無くせるのか」も、もちろん勉強になったのですが、対立するテーマを考える時に「注意すべき二つの落とし穴」はいつも確認したい内容だと思ったのでまとめたいと思います。

 

 

一般化のワナ

 

一般化のワナとは、自分だけの限られた経験を、ほかの人にもあてはまるものとして考えてしまうことです。学歴を必要としない職業についた大人が、そんな自分の経験を一般化して「学校の勉強なんて何の役にも立たない」というように、人それぞれ受けてきた教育の経験も、そこから得たものも、役に立ったものも立たなかったものも、本当はみんな違います。

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どちらが正しいというわけでもないし、どちらかが絶対に間違っているというわけでもない。それだけのことなのです。

と著者さんは述べます。

 

すぐれた哲学者は、みな、「一般化のワナ」にひっかからないよう厳しく自分をいましめてきたと言います。哲学者は、それぞれの経験を安易に一般化するのではなく、だれもが納得できるような本質にせまろうと考えます。私たちも「これは本当にだれもが納得できるような考えなんだろうか?」と、つねに自分に問うことが大事だということですね。

 

以下に一般化のワナの例を挙げます。

  • 最近の子どもたちはどんどん凶暴化してる
    …わずか数例の事件を聞いただけで「最近の子どもたち一般」を語ってしまう
  • 近ごろの若者は何をしでかすかわからない
    …報道が増えたことにより、一般化してしまいがちだと言えます
  • 探究型・プロジェクト型の学びこそが正解だ
    …どちらかが正しいというわけではない
  • 生徒はほめて伸ばすべき/生徒は叱って伸ばすべき
    …人によりますよね。どちらかが正しいという正解はありません。

 

 

二者択一のワナ

 

二者択一のワナとは、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」という「問い方のマジック」です。この問いは、どちらかが絶対に正しくて、どちらかが絶対に間違っているという答えはありません。人によって違う、まさに「一般化」できない問題なのです。しかし、わたしたちはそう問われると思わずどちらかが正しいんじゃないかと思ってしまい、引っ掛かってしまうのです。こうした問いは、国の教育会議や教育委員会などでも時折議論されてしまうと言います。「あちらとこちら、どちらが正しいか」とか、「これは正しいか、正しくないか」といった問いは、まずたいていの場合「問い方のマジック」なのだということに気づく必要があります。

 

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では、二者択一のワナに気付いた時、どのように考えれば良いのかというと、

あちらもこちらもできるだけ納得できる、第三のアイデアを考えよう。

と著者さんは言います。過去記事「ラテラルシンキング」ですね。

 

ddh-book.hatenablog.com

 

以下に、二者択一のワナの例を挙げておきます。

  • 教育は、平等が良いのか競争が良いのか
  • 学校の勉強は役に立つのか、役に立たないのか
  • 体罰はありかなしか
  • ゆとりがいいのか、詰め込みがいいのか

 

 

自由の相互承認

 

では、本書の主題であった「なんのために勉強するのか?」ですが、それは、〈自由〉になるためだと説明します。ここで言う〈自由〉とは、「生きたいように生きられる」ということです。

そして、「なんで学校に行かなきゃいけないのか?」というのは、自分が〈自由〉に生きたいのであれば、他者の〈自由〉もまた認めることができなくてはならないからです。学校で学ぶことを通して、わたしたちは〈自由の相互承認〉の原理を理解し、その感度を身につけていかなければいけません。

一方で、インターネットが普及した現代において〈自由の相互承認〉の理解する場は学校だけではないことも述べられています。とはいえ、子どもが大人になるまでに自分が〈自由〉に生きるための知恵と他者の〈自由〉を認める感度を身につけるというのは、親としても必要な考え方だなと思いました。

 

 

まとめ

 

「一般化のワナ」と「二者択一のワナ」は、日常生活の中でもつい陥ってしまう落とし穴だなと身に染みて思いました。そして、そのようなワナに引っかからないよう、アンテナを張って生きることは、自由の相互承認にもつながるし、親として子どもにも他者の自由を認めることを伝える手段になるのではないかと考えました。正しいか、正しくないか、○か×か、という極端な意見に対して、相手の自由を認めた上で、第三のアイデアを考えられる人になりたいと本書を読んで感じました。