今回は、 「はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内」(2004年)を読みました。
本ブログでは何度も「自分の頭で考えること」が大事だと学んできましたが、哲学的に「考える」ということについて学んだので、まとめたいと思います。
毎日見ているもの、例えば「コップ」を見た時に飲み物を入れるものだということは無意識で結びついているだけで、それを「考えている」とは言えませんよね。「考える」というのは、そのような習慣的に結びついているものの網の目から出ていくことだと本書では述べられています。
「あの子のことをいつも考えている」と言う時、何でも「あの子」に関係づけてしまって、習慣的な網の目から出ている状態 (普通なら考えもしないことを考えている)が「考える」ということになります。
教師は答えを知っているから、問題をうまく作れる。逆に、答えを知らず、答えの方向もわからない人には、うまく問題が立てられない。だけど問題がうまく立てられていないと、うまく答えることもできない。
じゃあ、答えが分かる前に、どうやって問題を立てればいいのか?
これが問いの逆説だ。
全ての問題が逆説に晒されている訳ではないものの、「考える」ことを要求するような問題は逆説を引き受けることになります。例えば、「夜空はなぜ暗いのか」は「光の強さは距離の2乗に反比例して弱くなること」を知っていて初めて問いにすることができますし、「宇宙が膨張していること」を知っていないと答えには辿り着けません。
つまり、問いは無知や無秩序から生じるのではなく、色々な知識があって、色々な理論を知っているからこそ生じます。学べば学ぶほど、沢山のことを、より深く問えるようになるということですね。
本書では、論理は考えないためにあるのだと説明しています。
論理は前提から結論を導く道筋です。しかし、論理の正しさと前提と結論の正しさは別ものです。例えば、「魚は水中を泳ぐ、ラッコは水中を泳ぐ、だから、ラッコは魚だ」とはなりませんよね。
論理的な結論というのは、前提をきちんと読んで、はっきりしない部分があれば問い正さなくてはいけません。論理の正しさをチェックするには前提の意味をはっきりさせなくてはいけないということです。「ことばの意味をきちんととらえる」というのが、論理というやつの正体だということでした。
正しい言葉を知らなければ、論理の確かさをチェックすることすらできない、ということは、「何に対しても自分で考える」か、「何も考えない」のどちらかということになっていまいますね。
また、常識というのは、ある範囲のひとたちに共通の、とりたてて言う必要もないほど当たり前の知識であり、普遍的な「常識」などはありません。常識は無数に存在します。本書ではR1というロボットの実験を用いて、ロボットにはいかに常識がないかを説明していました。
常識は、何かを考えようと思った時の足場となります。常識を疑うとは、時には自分の足場も疑うことで軽やかに踊るように考えを巡らし、考えを飛躍させることです。
「考える」というのは、
観察する。推論する。そうして手にしたものを書き出してみる。それをいくつかの仕方で整理する。組み替えてみる。聞いてもらう。そして、言いたいことを無責任に言い合ってみる。
そんなふうにして、問いを巡って、いろんなものをつめこんで、ゆさぶりをかける。
という手順になるのですが、ここからつめこんだものをいったん空っぽにしなければいけないと著者さんは述べます。そう。はじめて考えるときのようにです。つめこんだままでは、つめこんだものしか出てこないそうです。
過去記事「無意識思考」でもあったように、一度忘れてリラックスすることが「考える」ということだということでした。
「自分の頭で考える」ためには、様々な立場における常識(常識たち)を知っていて、その分野の知識をできるだけ多く持ち、言葉を正しく理解する(論理の前提が正しいのか判断できる)力が必要であるということが分かりました。
過去記事「子どもたちの国語力が危ない」のことが頭をよぎります。
「善悪という怪物」(2021年)では、善悪という二元論への無意識的判断や錯覚、善悪が複雑化した時に起きる「思考停止」についてとても興味深い内容だったのですが、私たちが「思考停止」しないためにも、本を読むこと、知識を増やすことってやっぱり大事だなと思いました。