今回読んだ本は、「「空気」の研究」(2018年)です。
本書は「二酸化炭素CO2が~」という話ではなく、日本人が時折発する「空気が許さない」といった、空気的判断についての研究です。原書は昭和52年に発表された本だということで、太平洋戦争や公害問題における「空気」の存在について、海外との比較や宗教的視点から研究・考察しています。
ありますよね~「今は言えない空気」だとか、「空気が読めない」とか。言葉が古くて読みにくい部分も多かったのですが、理解したことをまとめたいと思います。
著者さんは、「空気」による支配は、「臨在感的把握の絶対化」により起こると説明します。「空気」は目に見えない何かであり、時に有能な軍人の見立てや科学的解明ですら歯が立たない決定権を持っている、結構ヤバヤバな存在です。
本書で日本人とユダヤ人が共同でイスラエルの遺跡を発掘し、無数の人骨を扱うことになった際、日本人のメンバーのみが病人同然になってしまったという事例が紹介されています。過去記事「日航機墜落事故」でも、日本人は遺体に対しての思い入れが強く、指の一本でもと家族を探し、心理的にも多大な影響を受けていましたが、外国人犠牲者の遺族はあっさり遺体の引き取りを断っていましたね。
日本人は、身体にまで影響が出るほど非物質的なものから影響を受けたり、感情移入してしまうということなのですが、これが「隣在感的把握」であると理解しました。
隣在感的把握は原則として、対象への一方的な感情移入により対象と一体化し、対象への分析を拒否する心理的態度が生まれます。つまり、石仏は石であり、人骨は物質に過ぎず、天皇は人間であるといくら口で言っても、感情移入から脱却することはできません。一方、新しいシンボルを隣在感的に把握する、つまり対象の転換は比較的簡単に起きるようです。
「絶対化」というのは、「正義は必ず勝つ」や「正しい者は必ず報われる」といった絶対的な考えで、誰も疑いを持たず、そうならない社会は悪いと信じ続けることです。日本人は戦前も戦後もこれらの命題を相対化している世界すらないと信じ切っていたと著者さんは言います。
一方、一神教の世界では「絶対」と言える対象は神だけとなるため、他のすべては相対化されます。すべては対立概念で把握しなければ罪になってしまうため、「空気」というものが発生しても、相対化されてしまい、契約しか残らないということになるそうです。
日本にも「水を差す」という言葉がありすが、
- 敗れた者はみんな不義なのか?敗者が不義で勝者が義なのであれば、権力者はみな正義なのか?
- 報われなかった者は、みな不正をした者なのか?
と問うことをしない、絶対化しやすい民族だということが分かりました。
また、日本人には情況倫理(あらゆる事実は情況に対応する)と平等主義があり、「人間みな平等でその行為はある情況に対応している」という点も指摘しています。
具体的に言うと、「A君が羊を盗んだのはかくかくしかじかの情況のもとで行なったのだから、その情況を切り離して、〝盗み〟だけを取り上げてその人間を規定するのは正しくない。もっとひどい略奪が横行していた当時の情況を故意に無視することはできない」という考え方をするということになります。
さらに、日本版儒教の影響による儒教的道徳体型も存在します。すると「父と子が互いに隠すのがよき事」という倫理のもと、「社員は会社のために隠し、会社は社員のために隠す」という構造になります。
天皇がただの人にすぎないことは、当時の日本人は全員がそれを知っていた。知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり、それを口にすれば、正義と信実がないことになる、と言うことも知っていた。一言でいえば、それを口にする者は非国民すなわち「日本人ではない」ということなのである。
例えば公害問題で事実を突きつけられても、集団倫理と「父と子の隠し合い」が働き、科学的結果にまで「情況」が入ってきて、保守化せざるを得なくなる(絶対化する)のだということでした。
すごく難しい本だったので、正しく整理できたのか分かりませんが、日本人には目に見えない強力な力、「空気」ができやすいのだということが分かりました。当時と比べて「隣在感的把握」や「父と子の隠し合い」といった倫理観は弱まってきていますし、グローバル化に伴って自分の意見や事実を言う、つまり「水を差す」教育も行われてきていると思います。
「空気」には強力な力があり、良い方(例えば戦後の復興)にも悪い方(例えば太平洋戦争や公害問題)にも影響を及ぼすので、抹消しようとするのではなく、良い方に使えるといいのになと思いました。