歯科衛生士のよみもの

kindle unlimitedで本を読み漁り、感じたことを考察していくブログです。

漂流から見えた日朝関係

今回読んだ本は、薩摩藩士朝鮮漂流日記―「鎖国」の向こうの日朝交渉(2013年)です。

 

 

本書は、文政2年に起きた薩摩藩主手船亀寿丸が朝鮮に漂流した際の記録を安田義方(やすだよしたか)がまとめた「朝鮮漂流日記を中心に、当時の日朝交流の様子についてまとめた本です。お隣の国ですが、(もともと歴史は苦手で)知らない事ばかりだったので、本書を読んで調べたこと、学んだことをまとめたいと思います。

 

 

文政2(1819)年頃の日本と朝鮮

 

事件当時の日本は江戸時代で、文政小判が発行されたころであり、大奥の最盛期で町人文化が顕著に発展した時期です。文政6年に勝海舟が、文政10年に西郷隆盛が生まれていると考えると、江戸幕府崩壊への序章にさしかかる時期とも言えます。

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一方、そのころの朝鮮は李氏朝鮮(りしちょうせん)の時代であり、高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝になります。なお、豊臣秀吉が天下統一の後にニ度にわたって朝鮮出兵を試みたのもこの李氏朝鮮ですが、日本の敗北で終わっています。また、韓国と北朝鮮に分断されたのは第二次世界大戦が終わった1945年であり、それまでは35年以上、日本に統治されていました。

 

 

漂流民

 

日本への朝鮮人漂着事件数・人数は、1599年から1872年に至る274年間に、971件9,770人にも及ぶそうです。漂着した朝鮮人は、西日本の日本海沿岸に多く、長崎へ送り届けられ、対馬藩に委ねられて本国へ送還されました。

1640年代から日朝間における漂流民無償送還制度が始まったとされ、長崎経由で漂流民が送還されるという制度は、朝鮮人民衆に広く浸透した常識であったということです。

 

一方、江戸時代に朝鮮半島に漂着した日本人は、漂着地から釜山までは朝鮮側によって送致されました。釜山には対馬藩出先機関である倭館が置かれ、常時五百名ほどの対馬人が詰めていたそうです。釜山から対馬府中を経て長崎奉行所(ないしは大坂町奉行所)まで対馬藩の責任で送致されたということでした。

対馬藩国元家老は、漂流民を丁寧で速やかに本国送還をする、こうした行為のたゆまぬ繰り返しが日朝間の友好関係を維持してきたと述べています。

 

 

「朝鮮漂流日記

 

さて、「朝鮮漂流記」によると、船頭松元勘右衛門と水夫12人は、薩摩藩主松平豊後守手船・亀寿丸に乗り組んで薩摩国永良部島(現在の沖永良部島)へ藩主御用の品々を積み込むため出船します。 そして、永良部島を出た後、悪天候のために漂流し、朝鮮半島の西海岸の中ほど、庇仁県馬梁に流れ着きました

嵐のために帆柱を切り落とし、船はボロボロでした。馬梁では何人もの朝鮮人官吏が船に押しかけ、浮いているのもやっとの状態です。修理したとしても亀寿丸での本国への帰還は無理な状態でした。

Webで対馬海流を調べてみると、日本海の方向に流れる流れとそれこそ馬梁の方向に流れる流れに分かれており、これに流されたんだろうなということが分かります。地図を見ても分かりますが、日本人が頻繁に流れつくような場所ではなかったようで、日本語が通じず意思の疎通や交渉には難航します。

 

 

朝鮮官僚との交流

 

朝鮮人とのコミュニケーションは漢文(中国語)を介した筆談で行われました。日本人で漢文を使える者は皆病に臥せっており、武家の教養があった安田が対応するしかありませんでした。執拗な事情聴取が行われ、隅から隅まで調べられた調書が残っています。今にも沈みそうなボロボロの船で病人が乗っているにもかかわらず、水や食料、薪は支給してもらえたものの、上陸は許可されません。後から日本語通訳者が朝廷から送られてきますが、全く通じず、漢文での筆談もできないので役に立ちません。もどかしいながらもお互いを慮り、漢文の古典を読んでいた教養のある朝鮮官僚と日本の武家出身者が交流を深め、タバコや酒を飲み交わして詩歌を交換するなどして過ごした様子が良く分かりました。

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釜山まで何度も船を乗り換えながら移動し、そこそこで朝鮮官僚と詩歌を交換したり、特産品を交換したりして交流していた様子も残っています。

 

 

まとめ

 

本書を読むと、江戸時代の日朝関係はそんなに悪くないのかなと思います。と言うよりも、しょっちゅうお互いに漂流してくるので、とりあえず、無事に本国へ返していたということでしょうか。日本にも朝鮮にも身分があり、本書で書かれているのは官僚や武家といった比較的高い身分の人々の交流だけではありますが、偏見や差別意識などはなく、お互いに相手を尊重し、相手の文化を知ろうとコミュニケーションを取っていたことがよく分かりました。

戦後、朝鮮も北朝鮮と韓国に分かれてしまい、その発端は日本でもある訳で、もっと色々と、何とかならないものかなぁと思ってしまいました。