今回は、「京大哲学講義 AI親友論」(2023年)を読みました。
以前、AIの倫理について読んだことがあるのですが(「 人工知能に哲学を教えたら」(2018年)まとめられずブログ化はしていません)、難しいな〜、トロッコ問題など、人間でも正解が分からないのに〜と思っていました。
本書は、西洋の奴隷的捉え方ではなく、「WEターン」という捉え方から、AIは人間の親友になりうるのか?という議論を展開していきます。すごく面白かったので、まとめたいと思います。
WEターンについて、まず、「わたし」の行為は、それ自体、すでに「われわれ」の行為であると説明していきます。これは分かります。人は1人では生きていけませんよね。他の人間だけでなく、動物、植物、無機物もなくては生きていけません。
そして、「わたし」はもはや、どのように生きようとも「われわれ」=「WE」という枠組みで、考えなくてはならず、行為の主体はわたし(I)からわれわれ(WE)へ移行します。つまり、人は、「わたし」が生きていると考えていますが、WEターンの後には「われわれ」が生きているという認識になります。極端な話、病気や経済的なトラブルなど深刻な苦境に陥ったとしても、「わたし」は勝手に「われわれ」の死を、選択してはいけないのだそうです。
他人も、虫や動物も、石ころやロボットでさえ、皆「私たち」の一部ということだと理解できました。

さて、「主人/奴隷モデル」とは、人間を「主人」、AI・ロボットをその主人に仕える「奴隷」ないし「召使い」と捉える考え方です。ロボットやAIは自らのデザイナーである「人間」の「奴隷」であるべきだ、とされます。
そして、AIをめぐる現在の議論の多くは、個人の自律としての「わたしの自由」を前提に組み立てられています。AIは奴隷であるのでAIの自由を考えるという発想はありません。
しかし、日本人のイメージするAIロボット「ドラえもん」は奴隷的ではありませんよね。のび太くんをお世話するというミッションを持つ一方、のび太くんに対しても反抗する自由があるように見えます。
過去記事「ポジティブ・フリーダム」でオードリー・タンもドラえもん型のお世話・共感ロボットを想像していましたが、ドラえもんは非対称な主従関係などではなく、共に冒険をする仲間になります。

著者さんの提案する「共冒険者モデル」は、一緒にお神輿を担いでいる者同士の関係のように、共にリスクを引き受けつつ身体行為に参画する関係になります。そして、その共冒険者にAIロボットも含まれます。
「主人/奴隷」モデルに対して「共冒険者モデル」は、「われわれ」全体に自由を認め、その結果、人間やAIやロボットを含めた、すべての「われわれ」のメンバーに対しても自由も付与します。基本的な特徴は、「協調性」「参加随意性」「平等性」であり、特にリスクを平等に分担します。リスクとは、怪我や死の危険、機械なら壊れることです。

「中空構造」とは、誰も社会の真ん中、すなわち、利益や価値観の中心を占めないことを指します。主人/奴隷モデルの場合では「ひと」が揺るぎなく中心に位置しますが、WEターン社会では「ひと」さえも中心の位置を占めることはできません。中心は空っぽです。
そして、中心は「からっぽ」でも、中心に近いところにはAIロボットを含めた、道徳的な「e–ひと」たちがいます。 犯罪や暴力など、明確に判定のできる「悪い」ことをする仲間(共冒険者)は罰則の対象となりますが、社会からの排除対象にはしません。
WEターン社会では、勝ち組・負け組はないし、村八分もないということかなと思います。
ここから、倫理的な議論を経てタイトルにあるようなAIは親友になれるのか?という議論になるわけですが、そちらは本書をお読みくださいね。IをWEに変えるというのは、日本人的発想だなと思います。私は、本書を読んでWEターン社会っていいなと思いましたが、実現は難しいんだろうなとも思いました。
このような考え方が日本人から出ているというのがすごくいいなと思ったし、どんどん世界中に発信して欲しいなと思いました。
土日、朝から晩まで息子の部活の試合で、ほぼ本が読めず、ブログも書けませんでした(T_T)

