今回は、「自分で考える勇気 カント哲学入門」(2015年)を読みました。
カント哲学って、何度もチャレンジしたのですが、速音読では本当に全く理解できなくて…唯一、「カント_永遠と平和のために」だけブログにできていますねw。
しかし、本書はジュニア新書です。つまり、中学生でも分かるように書かれているということです。これを読んでも全くわからないというのであれば、中学生以下の頭脳しかないということで、自分を鼓舞し、必死で理解しようと頑張ったので、爪痕くらいは残しておきたいと思います(フルで2回読んだうえで、分からないところは何度も戻って読み返しました笑)。
カントの三批判論といえば、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』になります。ここで「批判」ということばを「否定的な意見を述べる」と考えると、カントの考えをくみ取ることができません(←私にはこれがあったと思う!)。「批判」はギリシア語で「分ける」という意味を持つクリノーという言葉に由来するそうです。
つまり、「理性を批判する」というのは、人間の理性はなにを知ることができ、なにを知ることができないかを分けて、人間の知の限界を確定するという意味になるそうです。
『純粋理性批判』というのは、私たちに何かがわかる(AがBであるとわかる)かどうかは、それを人間が経験する可能性があるかどうかにかかっており、人間が見たり聞いたり触ったりできる範囲、すなわち自然現象に限られるとカントは説明しているということでした。
『実践理性批判』では、善と悪とを分ける(私たちが何をすべきで、何をすべきでないか)を扱い、善意は自由なくしては無意味であることを説明し、自由と自然とを厳密に分けます。
『判断力批判』では、「客観的」と「主観的」を分けます。自由と自然とが人間を通して橋渡される可能性を明らかにしますが、この可能性は主観的にのみ示されることを説明します。
うーん、書いてはみましたが、いまいち分かりません(笑)
道徳的によい行い、例えば嘘をつかない、困っている人を助けるというのがあります。これはわかります。カントは道徳的善は〈誰かにとって善い〉ものではなく、〈誰にとっても善いのだ〉と考えました。つまり、普遍性を持っているということです。
しかし、その前にそもそも〈普遍性〉などというものに人間は関わることができるのだろうか、例外なく人間に当てはめることができるのだろうかと考えます。
ん?そして、いつも私を惑わすあの言葉が出てきます。
- ア・プリオリな認識…いかなる経験にも依存せず普遍性と必然性を持つ認識
- ア・ポステリオリな認識…経験に依存する認識
経験に由来する自然現象に対して、それを成立させるのは人間の認識のほうだ(認識に対象が従う)とカントは考え方を転換します。

さらに、認識をかたちとなかみに分けました。なかみ、すなわち認識の内容はいつでも経験に由来するので、ア・ポステリオリなものです。となると、ア・プリオリなものというのは認識のかたち(形作るもの、形式)の中にしかないということになります。このようなア・プリオリな概念は、私たちの〈自発的に思考する悟性〉が、それ自身の活動によって生み出すのだと主張します(純粋悟性概念)。
これをもって、人間は〈普遍性〉に関わることができるのだとわかったわけで、めでたしめでたし!ではなく(T_T)、善悪の基礎となる〈自由〉について、現物とそれ自体を区別することで、人間の自由(意志)はあるという可能性を残しました。
「ボランティア活動に参加しよう」というような具体的な目的や行為は、すべてア・ポステリオリなものです。つまり、普遍性を持つことができず、普遍的な善ではない(誰にとっても良い善とは言えない)ということになります。実際、内申点を上げるために、履歴書に書くためにボランティアに行くという場合もありますよね。

しかし、「困っている人がいたら、手助けすべきだ」という場合にはその格率は普遍的だと言えます。普遍性の持てない行為というのは、自分を例外化しなければ実現しないような行為(ズルい意志の行為)ということです。
君の意志の格率[行動指針]が、常に同時に普遍的立法の原理として通用することができるように行為しなさい。
つまり、それが普遍性をもてるかどうかを自分で問い、普遍性をもてるならそれを行うべきだし、そうでないなら行うべきではないとカントは言っています。
しかし、「道徳」というのは「幸福」のためにあるとは言えません。「幸福」概念には人間のさまざまな欲求や願望のすべてが含まれます。それを避けるなら、道徳的に善く生きることはなにかのために善いのではなく、それ自身が善い行いだということです。このような道徳法則を無条件な命令として表現したものは「定言命法(定言的命法)」と呼ばれます。
道徳的な善を実現することこそが、〈いちばん善い〉ことであり、カントはこれを「最上善」と呼びました。さらに、「最上善」を実現した人に他のさまざまなよさが与えられている状態、つまり、幸福に値する人が幸福になることを「最高善」と呼びました。
カントは幸福とは「すべてのことが願望と意志のとおりになる」ような状態であるといいますが、「道徳的に善く生きること」は自分の意志で実現可能である一方、「幸福になること」は一人ではどうにもなりません。
すると、往々にして人間は〈幸福になるために(幸福になれるなら)、道徳的に生きよう〉と考えてしまいます。本来最高善に含まれるはずの幸福が、道徳的に生きることの条件となるという、逆転・倒錯が生じてしまいます。カントはこのような倒錯を「根源悪」と呼び、「人間は生来悪である」という主張をします。性悪説ですね。そして、人間は根源悪を根絶できないものの、それと戦って制圧することはできる、とも言っています。
「最上善」を実現した人が幸福になる「最高善」というのは、むかしばなしや宗教の逸話などでよく出てくる話ですよね。しかし、カントは人間は生来悪だと言っていて、常に自分にそれは普遍的か?ズルではないか?と問い、戦わなければいけないと言います。このあたりが理解できただけでも、ちょっとは収穫があったのかなと思います^^
また、コンサル系の頭いいな~と思う人たちの本によく出てくる、ア・プリオリ、ア・ポステリオリも少しだけ意味が分かるようになったので、どのような文脈で使われるのか気にして読みたいと思いました。
ぺにょはイラストACでイラスト投稿しています!
今、10番目にダウンロードされているイラストはこれ↓↓(今回で紹介終わります!)
