今回は、「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」(2017年)を読みました。
本書は働くことと生きることについて歴史的に、哲学的に考えていく内容で、少し難しいな~と感じたのですが、最後の方にあった「アリとキリギリス」の話が面白かったので、まとめたいと思います。
子どもの頃に誰しも絵本で読んだことのある「アリとキリギリス」ですが、原話はギリシヤの「セミとアリ」だったそうです。北ヨーロッパにはセミがいなかったため、セミがキリギリスに置き換わり、それが十六世紀後半にイエズス会宣教師によって日本に伝来したのだそうです。

私たちが「アリとキリギリス」により植え付けられている、勤勉で計画的なアリと後先考えず遊興にふける愚かなキリギリスのイメージは、改変版によるものであり、本来の寓話はもっと違った内容なのだということでした。

子供向け絵本やディズニー版では、アリがセミに食糧を分け与えてあげたりと、さらに結末が改変されています。
冬のある日の事です。
アリたちは貯めてあった穀物(こくもつ)が湿ったので、家の外で乾かしていました。
そこへ、お腹を空かしたセミがやって来て、
「何か、食べ物を下さい」
と、頼みました。
アリたちは、
「あなたは、どうして夏の間に、食べ物を蓄えておかなかったのですか?」
「ひまがなかったのです。きれいな歌を歌うのに忙しくて」
アリたちは、せせら笑って言いました。
「なるほどね。しかし、夏の間、歌を歌っていたのなら、冬は踊りでも踊ったらどうです」このお話しは、つらい目や危ない目に会うのが嫌だったら、どんな時にも、いざという時の備えをしなければいけないと教えています。
(福娘童話集より引用)
これだけを読むと、「アリとキリギリス」とそんなに違わないよねと思いますが、アリの偏狭でケチな性格がイソップ物語の「蟻」という話から知ることができます。
現在の蟻は昔は人間でした。そうして農業に専念しましたが、自分の労働の結果では満足しないで、他人のものにまで羨望の目を向けて始終隣人たちの果実を盗んでばかりいました。ゼウスは彼の慾張りなのにお腹立ちになって、その姿を蟻と呼ばれているこの動物にお変えになりました。しかし彼はその姿を変えてもその気質は変えませんでした。というのは今日に到るまで彼は田畑を這い廻って他人の小麦や大麦をかき集めて、自分のために蓄えるのですから。
この話は、生まれつき悪い人々は非常にひどく懲らしめられても、その性格を変えない、ということを明らかにしています。

う~ん、これは、アリのイメージが大きく変わる話ですよね。イソップ物語では、アリの性格は共通しているということで、こうなると、「セミとアリ」がまた違った話のように見えてきます。著者さんも、
このようなアリ信仰は、禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美し、その反作用として「今を生きる」「生きることを楽しむ」ことを良からぬこととして捉えるような、倒錯した価値観を生み出しました。
と書いており、働きすぎる日本人にも苦言を呈していました。
「人生が好転する100の言葉 頑張らずに楽しく生きる」(2022年)でひろゆき氏は、世間に何かの価値を残しても、人類に貢献することができても、生きる幸せが実感できるかはわからないので、人生の価値や意義とか、考えなくてもいいんじゃないでしょうか。と、書いています。
一方、国立がんセンターの精神科医清水氏は、「もしも一年後、この世にいないとしたら。」(2019年)で、誰かの役に立ちたいという気持ちは生きる原動力になるようだと述べています。
本書の著者さんは、
人間は、生きることに「意味」が感じられないと、生きていけなくなってしまうという特異な性質を持つ、唯一の動物です。
と言っており、人は人生のどこかで「自分の生きる意味」を考え、答えを出していかなければいけないものなのかも知れません。そして、アリではなく、キリギリスやセミよのうに楽しく生きるというのが自分の生きる意味でも何ら問題ないし、むしろ健全なのではないかと思いました。


