今回は、「日本武術神妙記」(2016年)を読みました。
本書は、 剣豪・武術家の歴史書がまとめられた本で、言葉も古く、全て読点(、)で区切ってあるため、高速読み上げでは大変読みづらく分かりにくかったのですが、宮本武蔵についても書かれていて、一生懸命読んでしまいました。過去記事「五輪書」では、宮本武蔵が熊本にいたことを知り、もしかしてあまり慕われていなかったのでは?と推察していましたが、その可能性の一端を垣間見たので、興味深かったエピソードをまとめたいと思います。
巌流島の佐々木小次郎のと戦いでも、武蔵は約束の時間から遅刻していますが、これは武蔵の戦略のようです。

京都北野の七本松で吉岡建法(又三郎/拳法/兼房)と仕合をすることになった時、双方朝五時と約束しました。兼房は時間通りに北野に行きましたが、武蔵は昼になっても現れません。これは、武蔵がわざと吉岡に気を屈させようと、悠々と時を延ばしたのである。と『古老茶話』には書かれています。
また、別の仕合では、先に弟子の清十郎、伝七郎と仕合をしたのですが、武蔵はいつも時間よりも遅れて来ました。しかし、又三郎との仕合では先に行き、「やあ又三郎待ちかねた」と大声に呼ばわり、相手を翻弄させて打ち勝ったそうです。吉岡一門は、武蔵に断絶させられたそうですよ。
宮本武蔵は自分の流派を広めようと九州を巡り、熊本の城下近くの松原で稽古を披露していました。

武蔵はおしゃれな麻の着物に金箔の紋を入れた派手なスタイルで登場し、夜な夜な出てきては剣を振るっていました。もともと俊敏で自由自在な動きができる男だったため、その戦いぶりは圧巻で、まるで愛宕山の天狗ですら「こんなことがあるのか!」と驚くほどだったと言います。村上吉之丞はこの話を聞いて、「よし、武蔵と勝負だ!」と人を通じて挑戦状を送ったそうです。武蔵はこっそり吉之丞の腕前を調べ、どうも自分では勝てそうにないと悟ったらしく、さりげなく他の国へと姿を消してしまったらしいという話でした。
また、『吉岡伝』には、宮本武蔵が来て仕合をしたが眉間を打ち破られ、改めて仕合をやり直すという約束の日に至って武蔵は逃げ去ったという話も書いてあるそうです。
『五輪書』と並ぶ近代武道書の二大巨峰とも言われる『兵法家伝書』の柳生宗矩と一緒に剣術を学び、 新陰流を確立した柳生利厳(兵庫は通称名)とすれ違ったエピソードもありました。

名古屋で門弟と歩いていた武蔵は、「この人の歩き方は遅からず早からず、真に活きた人の態度である、俺は江戸を出てから久し振りで活きた人に出逢った、これは必ず柳生兵庫であろう、そうでなければ当城下に別に斯様の人がある筈は無い」と言ったそうです。すると、先方から「宮本先生ではござらぬか」と声をかけられ、「さ様に仰有るあなた様は柳生先生ではござりませぬか」 と答えたという話です。
兵庫も武蔵もまだ未知の間であったけれども双方その態度を見てその人を覚ったということでした。これはこの話は怪しいけれども記して置く。だそうです(笑)
『剣術落葉集』には、こんな宮本武蔵のエピソードもあります。
相手の打込む太刀先きや突出す太刀先が殆んど武蔵の前頭部に中るか腰部を擦るかと思うほどであっても一度も中った(入った)ことがないそうです。そのことに気づいた弟子が武蔵に質問すると、「相手の太刀先と我身との間に一寸(3.03cm)の間合を見切るのである、一寸の間合があると見切れば、相手が打ち下しても突いて来ても決して我が身に中るものではない」と言って、この見切りを弟子たちに伝授したそうです。
剣豪・武術家の記録をまとめた著者さんが作った強さ番付を書いておきます。
名人→塚原卜伝
渡辺幸庵の物語には「武蔵は強さに於ては柳生但馬守よりも井目も強い」(「井目(せいもく)」は、碁盤上の9つの点。実力に大差があるとき、この9つの点にあらかじめ石を置くハンデを下の者がもらって対戦すること。つまり、武蔵は段違いに強かった)と書いてあったり、他の本では「柳生但馬守は宮本武蔵の弟子だった」と途方もない事も書いてあったそうです。一方、宮本武蔵の強さが問題になっているのは、今に始まったことではないそうで(笑)、著者さん的には「上手」の辺りだろうということでした。
本書を読んで、宮本武蔵は天下一…では無いけどけっこう強かったというのが分かりました。また、遅刻戦法など、相手を翻弄する手腕に長けており、これを好ましく思わない人もいたのではないかなと思います。風呂嫌いだったため、偉い人とお近づきになれなかったという話もwebで見つけました。そんなところが、徳川家に召し抱えられた柳生一門との差なのかも知れませんね。
今のようにスマホがなかった時代でも宮本武蔵の記述は多くの本に残っていて、間違いなく有名人だったし、突飛な行動も含めてエンタメ的に注目されていた人物だったんだろうなと思いました。武蔵を迎え入れた肥後藩主細川忠利は、武蔵が熊本に来た翌年に急死しています。そこで放り出されることなく、 2代藩主光尚によりこれまでと同じように賓客として厚遇されて熊本で生涯を閉じた訳で、やっぱりどこか魅力のある人物だったんだろうなと思いました。有名人の性というか、やっぱり一部からは嫌われていたとは思いますけどね〜(笑)
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