これは、過去記事「思考を深める読書」の著者さんがおすすめとして挙げていた本(タイトルのみ合致)で、いつも通り、unlimitedで読めるものになります。
このような本を書く方というのは本当に宮本武蔵がお好きで、現代語に訳はしてくれているのですが、ぜひ原文を読んで欲しい、じっくりと味わって欲しいという思いが強すぎて(笑)高速読み上げの私とは合わないな〜と思いつつ、知らなかったこと、感心したことをまとめたいと思います。
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まず驚いたのが、「五輪書」が書かれたのは熊本郊外(金峰山のふもと)にある岩戸山雲巌寺の霊巌洞だということです。武蔵は59歳の時に、長岡佐渡の仲介により肥後藩の客分になったそうで、柳生新陰流の師範や藩主である細川忠利と立ち合い、相手に少しも技を出させないまま勝ったのだそうです。また、今日残る武蔵の水墨画のほとんどは、この熊本時代のものであり、最晩年の4年は、武蔵は坐禅をし、画を描き、また家老達の茶の湯や連歌の会に招かれたりして、閑かな日々を過ごしていたそうです。そして、死の一週間前に『五輪書』を書き上げ、草稿のまま直弟子である寺尾孫之丞に譲り渡したということでした。
何を隠そう、私は熊本出身、熊本育ちで、今も熊本に住んでいるんですよね。なのに、こんな話全く知りませんでした!!金峰山だって何度も登ったことがあるのに…熊本城に宮本武蔵が来ていたなんて、聞いてませんよ!熊本を出たのことない母に聞いても知らないと言うし、今まさに歴史を勉強している中2の息子に聞いても知らないと言います。どうなっているんでしょう熊本の教育は!?過去記事「フラクタル」で学んだフラクタル現象が起きているのでしょうか?

また、時期は前後しますが、島原の乱では小倉勢と一体で行動した中津藩の騎馬武者として出陣しているそうです。武蔵も前線に出ており、宮崎の大名の軍功を証する手紙も残っているようです。
一方、大坂の陣以来、全国規模の合戦がなくなって約30年経っており、島原の乱における若者たちの戦い方を見るに、戦い方を知らない者ばかりだと、武蔵は歯がゆく思ったようです。生涯を通じて鍛練してきた兵法の実の道を、何とか書き残しておきたいと思い、筆を執ったということでした。
私はここでピンときましたよ!熊本県民は天草四郎については絶対に教えられるんですよね。天草に行けば、ミュージアムやらやたらと大きな像がありますし。天草四郎を主役とするなら、宮本武蔵は敵な訳です。しかも有名人過ぎる県外出身の大御所。武蔵を強調してしまうと、郷土の有名人が目立たなくなってしまうのを危惧した教育委員会があえて伏せたのではないでしょうか?←勝手な妄想w
さて、話を「五輪書」に戻すと、武蔵の剣は人を殺す剣術になります。まさに、「るろうに剣心」の実写の世界ですよ。
十三歳で初めて勝負をした。その相手・新当流の有馬喜兵衛という武芸者に打ち勝ち、十六歳の時には、但馬国の強いと評判の秋山という武芸者に勝ち、二十一歳の時には京都へ上って、天下に名立たる武芸者と何度か勝負をしたが、勝利を得ないことはなかった。
と書いており(現代語訳)13歳〜28、29歳まで一度も敗れたことはなく、50歳まで朝夕鍛錬を続けて道に達したとも書いています。「万事におゐて我に師匠なし」と言い切るところもなかなかだなと思いました。本当に一度も負けなかったのかな?相打ちで怪我とかしたんじゃない?と思うのは私だけでしょうかね(笑)
宮本武蔵と言えば「二刀流」ですが、先述した通り彼の剣術は人を殺すためのもので、脇差は狭い空間では役に立つという意味での使い方になります。
脇差は、座の狭い所、敵の身際へ寄る時には大変役に立つ。
太刀は、どのような所でも、大体役に立つものである。
武士は二刀を差しているので、戦う時には使える武器は何でも使えるようにと考えており、二刀流というのは、太刀を片手で遣うことに慣れるためということでした。
そして、足の運びも実践に即しています。
足の運び方は、つま先を少し浮かせて、踵をつよく踏むべきである。足遣いは、状況によって歩幅の大きい小さい、遅い速いはあるが、常に歩くがごとくにである。飛足、浮足、踏み据える足という三つは嫌う足遣いである。
「陰陽の足」という足遣いが重要であり、 斬る時、引く時、刀を受ける時でも、陰陽の両極を交互に渡る様に、右左右左と踏んでいくそうです。
武蔵が興した「二天一流」は、現代剣道における「二刀流」の源流ともなっており、この「五輪書」も剣道の技術や精神修養に非常に深い影響を与えているようです。
勘繰っているだけですけど、本書を読んで、宮本武蔵って今ほど皆に好かれてなかった?と思いました。だって、武蔵の門弟となった者は、藩主・家老から軽輩まで、肥後藩や長岡家中で1,000人以上いたそうですよ。敬愛されていたのなら、熊本県民の誇りとして、もっと語り継がれていてもよさそうなものです。小説で後から有名になりましたが、晩年は戦もない平安な世の中だったわけで、「剣豪wオワタ」と熊本城に勤める若者たちからは思われていたのかも知れません。「道を極めた」と言っているのも、もうちょっと謙虚な方が他人から好かれる気がします。
そんなことを思いながらも、「移らかす」、「むかつかする」、「おびやかす」、「うろめかす」といった戦い方の話や同じ攻めを三度繰り返してはならないという教えは実生活にもビジネスにも応用できるなと、勉強になりました。
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