今回読んだのは、「天皇の原理」(2023年)です。
本書、タイトルの割に、全体の8割近くまで読み進めなければ天皇の話は出てきません(笑)天皇がキリストと同じなのか否かは今回置いておいて、内村鑑三の話が出てきたので、まとめたいと思います。
なぜ、内村鑑三に興味を持ったのかと言うと、過去記事「斉藤宗次郎」で雨ニモマケズのモデルとなった斉藤宗次郎を東京に呼んだのが内村鑑三だったからです。そして、斉藤は内村鑑三についての本も出していたんですよね。
Wikipediaによると、
日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
ということで、日本を代表するキリシタンであり、キリスト教の研究者になります。
さて、「予定説」というのは、「救済は予め、神によって決められている。」という考えを言います。救済の予定説(プレデスティネイション predestination)とも呼ばれます。そして、この予定説を日本人が理解することは絶望的とすら、本書で熱く語られています 。

ユダヤ教、キリスト教では神と関係なしに、すでに定まっている是非善悪などありません。神が是非善悪を定めるのです。神が正しいと定めたから正しい。神が禁止したから(それを行なうことは)正しくないということです。
法は、神が自由に立(つく)る。神の自由な意志決定による。
人間の規範、是非善悪、正・不正などに左右されることは少しもないのです。
日本では仏教や儒教の精神が根付いており(日本独自の変質仏教ですが…)、仏教の論理は因果律です。つまり、よいことをすれば必ずよい報いがある。わるいことをすれば必ずわるい報いがあるという、因果応報の考え方ですね。昔話でも、現代のアニメでもこの法則は変わらない考えで、日本人ならば馴染みがありますよね。我が家でもよく、「それは自業自得だね」なんて言ったりします。

そんな日本人が、人の行いの良し悪しにかかわらず、神が勝手気儘に、人を救ったり救わなかったりする予定説を理解しようとすれば、悶絶してしまうそうです。
そして、内村鑑三も予定説を説明するために苦心惨憺しています。が、「カルヴァンやヴェーバーとはちがって、予定説の論理を理解しているとは言いがたい。根本的に誤解している」と著者さんは述べます。それは、もちろん彼が日本人であり、骨の髄まで因果律を体得しているからに他なりません。
彼の予定説についての説明は、以下です。
私は神の摂理に余儀なくせられて、むりやりにキリスト信者となさしめられた者であります。
まず内村鑑三は、神に強制されてキリスト信者となり、神に強制されて、キリスト教を伝道するようになったと説明します。これこそまさに予定説ですね。そして、
ここまでは、著者さんも予定(選択)の精神を体感していると評します。
しかし、彼でも「救いは道徳と関係ない」と言い切ることができません。客人に「ある人は救い、ある人は救わない神というのは、非常に不公平な神です。このような神を公正な神、公義の神と呼ぶことはできないのではないですか?」と聞かれた内村鑑三は、
「ごもっともなるご質問であります」
と答え、「自然もまた不公平なのだ」とか、「キリスト教徒は、神の計画によって、キリストと共に栄光にあずかる特権を持つだけでなく、キリストと共に十字架の苦しみを受ける使命も与えられています。」などと言って、何とか「神は不公平なり」の疑問に答えようとしてしまっています。

予定説の理論では、 人間の規範、是非善悪、正・不正などに左右されることは少しもないのです。それを正しく理解していれば、「ごもっとも」なんて言うはずもないのだということでした。予定説を正しく理解しているならば「そう、神は(人間からみれば)不公平なのです。」で終わりです。
予定説、分かりますよ。分かりますが、私も骨の髄まで日本人なので、因果関係は微塵もないというのがどうしても腹落ちできません。悪いことをしてもバチは当たらない、バチが当たったとしても、それは神の気まぐれだっただけ。すべては産まれる前から神が定めたことであり、人間が何をどうしたってそれを覆すことはできないのですから。じゃあ、悪い行いをしても良いってこと?良いことをした人も罰せられてしまうの?キリスト教の救いって何!?う~ん、著者さんの言うように悶絶してしまいそうです(笑)そして、この話が天皇とキリストが同じであるという論理に繋がっていくのですから!悶絶してみたい方は、是非読んでみてくださいね。
