今回は、「養老孟司の人生論」(2023年)を読みました。
養老先生の本を読むのは「壁シリーズ」以来ですが、彼の独特の考え方、ものの見方の原点に彼自身の性格に加え、大学紛争があったことが理解できました。
特に面白いと思った、「考える」についての彼の考えをまとめたいと思います。
助手2年目として東大の研究室で研究をしていると、ゲバ棒、覆面、ヘルメットで、研究室の封鎖に来た学生たちに研究室を追い出されてしまいます。そう、大学紛争です。

まったくの戦後育ちの学生たちが、直接に戦争の体験があるわけでもないのに、戦争中の社会の雰囲気をいつのまにか身につけて行動していました。ごくフツーの人を極端な行動に導いていく雰囲気が消えるどころか、帰ってきたことに驚くとともに、大学とは何か、学問とは何か、なぜ武力で奪われなければならないのかと彼は何年も何十年も考えを巡らせることになります。
問題は「自分が正しいか」どうかではない。「なにが本当に正しいのか」です。それを追究するのが学問なんです。そのことこそ、まさに「あたりまえ」ではないでしょうか。 紛争時の学生たちに、そうした思いがどこか欠けている。私はそう感じていました。
養老先生は虫取りが好きなのは有名ですが、金儲けのためでも、権力のためでもなく、何のためでもない「純粋行為」になります。しかし、世間で生きるということは、他人を考慮するということです。他人が見ている、見ている可能性があるという状況では、純粋行為は成立しにくく、 戦争中などは特に「この非常時に、虫なんか、取りやがって」ということになってしまいます。

研究活動というのも「純粋行為」だった(だと思っていた)のですが、世の中が変わり「開かれた大学」と言われるようになると、学問を純粋行為だと思っている人間も居なくなったと述べます。
「真理の追究」なんて、だれも信じない。大学の人自身が、信じてない。あの紛争は、むしろそのことを明らかにしてしまいました。
疑問を丸めれば、自分は楽だし、世の中では暮らしやすくなります。でもそれをあまりやると、考えなくなります。
「そういうものだ」「済んでしまったことは仕方がない」「水に流す」というのは、「もう考えなくて済む」ということです。
一方、徹底的に考えると、学問になります。ハチの生活に徹底的にこだわったファーブルがそうですね。ファーブルがハチの生活を「どうでもいい」と思ってしまったら、『昆虫記』は生まれなかった訳です。
しかし、何にでもこだわっていたら過去記事「考えるということ」の常識ように、自分の足場を失ってしまいますよね。養老先生は、相手が「変わらないもの」にこだわることが学問なのだと述べていました。
さらに、考えることには努力・辛抱・根性が必要なのだと主張します。筋肉は使わなければ育たないのと同様に、脳も考える訓練が必要なのだ理解しました。

まずは習慣になるまで嫌だと思っても努力する、それが第一段階です。そのうち、それが好きになり、好きになれば、一生懸命にやるわけです。
養老先生は、世間に対して「辛抱」してきたと述べていますが、その辛抱する中で考え・考え・考え抜いて自分の答えを見つけてきたということなのかなと思いました。
私も恩師の先生から、大学紛争の話を聞いたことがありますが、なぜ、そんなことが起きたのか全然知りません。この辺の本も読んでみないとなと思いました。
また、戦争にしても大学紛争にしても、東日本大震災も、コロナの時もそうでしたが、理不尽に日常を奪われるという経験は、自分の考え方や生き方を大きく左右する経験になるのだなとつくづく思いましたし、ここでちゃんと「考える」ことが大事なんじゃないかなと思いました。養老先生は自分の本は仏教のお経のようだと述べていましたが、諸行無常、一切皆空というのは、仏教徒ではなくとも悟る境地なのかなと本書を読んで感じました。
