今回は、「虹を渡った人たち ボクの心に火を点けた 挑戦者の物語」(2022年)を読みました。
自己啓発系の小説なのですが、本書の中に出てきた斉藤宗次郎の話が興味深かったので、まとめたいと思います。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決していからず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい(カタカナをひらがなに変換)
これは、言わずと知れた宮沢賢治の 『雨ニモマケズ』です。この詩は作者である宮沢賢治の死後に発見されており、 1931年(昭和6年)の11月の手帳に書かれていたものだそうです。病床に伏し、自らの死を覚悟した宮沢賢治が記したと言われています。
そして、この詩のモデルと言われているのが、斉藤宗次郎という人物です。
斉藤宗次郎は岩手県花巻の禅宗の寺の三男として生まれ、15歳のときに母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となりました。

彼は小学校の先生となり、1900年に信仰告白をし、 洗礼を受けてクリスチャンになりました。しかし、この時代はキリスト教がまだ「耶蘇教」 「国賊」などと呼ばれて、人々から激しい迫害を受けていた頃です。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなり、石を投げられ、親にも勘当され、小学校の教師も辞めさせられてしまいました。近所で火事があると、自宅にまで放水され壊されましたし、窓ガラスは何度も割られたそうです。
迫害は彼だけにとどまらず、家族にまで及んでいきます。長女の愛子ちゃんがヤソの子どもと言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こしわずか9歳という若さで亡くなってしまいます。宗次郎はそのような苦しみの中でも、「御心がなりますように」と神様を信じ、神様に従い続けました。
彼は牛乳配達と新聞配達のため、1日40キロの道のりを歩きながら、迫害する人々に対してキリスト教の教えを伝え続けました。重労働のなか、彼は肺結核をわずらってしまい、幾度か喀血しますが、それでも毎朝3時に起きて、夜9時まで働き、寝るまで聖書を読み神に祈るという生活を続けました。不思議なことに、このような激しい生活が20年も続きましたが、不思議と体は支えられました。彼は、雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人々のために祈り、働き続け、周りの人から「でくのぼう」と蔑まれながらも、愛を貫き通したのだそうです。

WEBで検索すると、 新聞を配りながら、一軒ごと家の前で立ち止まり、その家の祝福を祈っていた、朝の新聞配達の仕事が終わる頃、雪が積もると小学校への通路の雪かきをして道をつけていた、 小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走って届けた(これは、今やるとダメなやつ;)といったエピソードが出てきました。
そして、1926年、彼は内村鑑三(無教会主義を唱えた日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者)に招かれて、花巻から東京へ引っ越すことになります。 花巻の地を離れる日、そこには、町長をはじめ町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、町の人々、物乞いにいたるまで、身動きがとれないほどの人々が群がったそうです。駅長は、汽車の停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させたということでした。

そして、この群衆の中にいたのが若き日の宮沢賢治だったのだそうです。 東京に来て花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものだったと言うので、お互いに知り合いなのは間違いないのでしょう。
「雨ニモマケズ」はもちろん知っていましたが、1日に玄米4合って多くない?と呑気に思っていた(笑)くらいで、実際にこのような人が居たとは初めて知りました。斉藤宗次郎で検索しても、かなりの古書や専門家の論文が出てくるばかりで、彼について書かれた本は見当たりませんでした。
今回、斉藤宗次郎という人物のことを知って、「そういう者に私はなりたい」という言葉の重みが一段と増し、この詩が残り続ける意味が分かった気がします。
