今回は、「ともに生きるための演劇」(2022年)を読みました。
本書は、コロナ禍以降に書かれたというのもあって、演劇は不要不急なのか?そうじゃないんだ!という話も多かったのですが、本書に書かれてい対話と会話の違いや日本語の歴史についてとても面白いと思ったので、書いておきたいと思います。
日本という国は、国境線と言語の境界線がほとんど重なっており、人の流動があまりないため同じ生活習慣、同じ価値観を持つ共同体となっています。このような環境では、言葉で多くを説明しなくてもお互いに理解し合えてしまう、つまり、ハイコンテクストな社会となりますが、日本ほどの大きな国家でこのような社会はほとんど見られないそうです。

ヨーロッパなど多くの社会では、相手が分かるようにていねいに言葉で説明する必要があり、対話が重視されます。対話と会話の違いは以下のように説明されています。
「会話」…親しい人同士のおしゃべり
「対話」…異なる価値観を持った人とのすり合わせ
日本はハイコンテクストな社会であると同時に、「対等な人間関係」というものが成り立たない社会であったがゆえに、「対話」を学ぶどころか「対話」という概念すら育たなかったのではないかということでした。
そのため、日本語には対等なほめ言葉が少ないとよく言われるのだそうです。日本語には上司から部下への「よくやった」や、親から子への「上手だね」というように、ほめ言葉にも上下関係が入り込んでいます。上下関係を取り払って対等にほめようとすると、ゴルフで使う「ナイス・ショット!」などの外来語や和製英語に頼らざるを得ないということでした。若い子達がよく使う「かわいい」は、対等なほめ言葉がない日本語の欠落を補っているのだそうです。

特に男女間では、男性が女性に指示する関係の言葉はあっても、女性が男性に指示する言葉がありません。そのため母親が子供に指示するような言葉を使うしかなく、中高年男性が「若い女性看護師に子ども扱いされた」と怒るという事態が起きる訳です。
世の中のグローバル化は止められない事であり、日本社会も多様化が進んでいます。もう「会話」だけでは対応できないことを理解して、異なる価値観を持つ人といかに「対話」するのかを学ぶ必要があります。
とりわけ、日本の学校教育は強い軍隊や国家を作るために始まっており、日本社会の価値観が多様化するにつれ、画一的な教育システムにひずみが生じ、大きなずれが顕在化してきたと述べます。しかし、日本語の構造では、欧米を真似して相手を論破するような話し方をすると、相手の人格攻撃をしているようにとられてしまい、うまくいきません。
そこで、著者さんは演劇のワークショップを学校や地域で行っているそうです。
演劇は、フィクションの力を借りて、自分ではない誰かになることができます。無理に自己を変えるのではなく、自分と、演じる役との共有できるところをすり合わせる体験もできます。つまり、擬似的に世間と折り合いをつけることを体験できるのです。
具体例は本書を読んでいただければと思いますが、おとなしい子や参加するのが苦手な子をどうすれば活かすことができるかをみんなで考えることで、拍手喝采を得られるということが実感できるのだそうです。
「共同体の中で最も弱い人をどう活かすか」ということが全体のパフォーマンスを上げるという考え方は、「日本でいちばん大切にしたい会社」の考え方と近いなと思い、いいなと思いました。
ほめ言葉に上下関係があるなんて、今まで考えたこともありませんでしたが、確かに、よく考えるとあるなと思いました。日本人が「対話」が苦手だということが本書を読んで腹落ちしましたし、これからは、 異なる価値観を持った人を認め、対話を通してすり合わせしていく力が絶対に必要だなと思いました。日本人は謙虚だと言われますが、言わなきゃ、話してみなきゃ分からないこともあるよということですね。
